Act.2 鉄と傷
フライ返しの柄が割れたことを思い出す。早めに買い替えないと、と英士は考えていた。次は値段をケチらないでちゃんとしたものを選ぼう。
街の中で通り魔事件があったことを帰りのホームルームで担任が告げた。
清虚嶺蘭女学園の生徒が襲われたことは既に知れ渡っている。ネット上では未確認の情報だと前置きをしているが、保護当時の女子生徒は貧血状態でこれは吸血鬼による犯行であると出回っていた。
通り魔事件として扱われているのは吸血鬼に対する配慮だとわかっている。
赤黒き写本。
誰かが大昔に構築した、能力者のみに感染するアルターポーテンス。人間の血液を定期的に接種しなければいけない体に作り替えてしまうという厄介な能力。それ故に忌避され、差別されてきた者たちが吸血鬼と呼ばれている。
いくつかの諸注意が伝えられてホームルームが終わる。担任がいなくなると教室は吸血鬼の話題で持ちきりになった。
血を飲むとか気持ち悪い、吸血鬼狩りを支持しちゃうな、でも吸血鬼って年を取らないんだろ? 最高じゃん、何考えてるかわかんないよな急に豹変して襲ってくるんだろ?
氾濫する言葉の中で英士は逐一、本当にそうだろうか、と心の中で繰り返す。潜望鏡で海底から様子を覗くような心持で周りを窺う。話題に乗らない級友がいるとそれだけで安堵した。
「避妊しなきゃ性病みたいに感染したりすんのかね」
声高に笑うサッカー部の連中を英士は横目で見た。通りの良い声で発せられた浅慮な言葉は、そのままクラス中に蔓延していくような気がして不快だった。
なに? と気付いた一人が英士に声をかける。火種を注ぐことは良しとせず、英士はそっぽを向いた。
「いや、何でもない」
一瞬、場が静まった。しかし一際目立つ生徒が「そりゃお前、藤居だって聞き耳立てるって。だって避妊の話は大事だろ?」と言うなり、「夜はお前の方が吸血鬼より上手だろ!」と取り巻きの仲間がすかさず囃し立てた。藤居のことはとっくに蚊帳の外になっている。級友の何人かは白けた顔をしていた。とりわけ女子生徒の表情は厳しく、軽蔑しているようにさえ見えた。
冷めた視線に気付かず、先ほどの盛り上がりを取り戻すべく手を叩いて笑う運動部を中心とするクラスメイトたち。彼らを後目に一足先に英士は席を立つ。
何だか逃げ出すみたいだ。後ろ髪を引かれるような思いだったが、その場にいたくなかった。
抱えてしまった不快感を飲み溶かそうと思い、遠回りをして下駄箱に向かう。
藤居は能力を起動し、両手の間に納まるサイズの無骨な黒い鉄の塊を具現化させた。
アルターポーテンス、深層心理鉱脈
光の加減によって青系統の色味を帯びるそれは、次第に波打つように変形していく。
大小の棘が四方へと飛び出した。幾重にも分岐しては縮小を繰り返す。かと思えば、四角いブロック状の突起が重なり合って嵩を増し、ある程度の高さになると内側に向かって自壊する。形状がまるで安定していない。無神経な同級生たちに少しイラついていることはわかっている。けれど分身であるディープブルーがここまで反応すると、否応なく自分の未熟さを痛感せざるをえない。
集中することを言い聞かせて正四角形を作ろうと試みる。けれど雑念が脳裏を過った。四隅がそのまま鋭角を伸ばし、また形は歪なものになってしまう。
あの場で自分は何を言えばよかったのだろう。
ディープブルーに意識を向けていたため周囲のことがおろそかになっていた。階段に差し掛かったところで駆け降りて来た生徒とぶつかる。きゃっ、という短い悲鳴が聞こえた。英士は尻餅を着く。そこに覆い被さるように倒れ込んだのが鷺ノ宮楓だった。
倒れた直後、楓は目を閉じていて事態に気付いていない。しかし英士はどぎまぎしている。
先輩顔近い!
英士は吐息をかけまいと呼吸を止めた。楓の垂れた髪の毛が英士の頬にかかり、香のような匂いが鼻腔をくすぐる。密着した柔い胸に圧迫されて英士は身動きがとれない。その感触に頭に血がのぼるのがわかった。
最優先させたのは英士の心理と同期しているディープブルーの解除だった。
「英士君?」
目を開けた楓も瞬く間に紅潮する。楓は弾かれたように起き上がった。「ごめんなさい!」と言う声も裏返っている。
「怪我はない?」
楓の言葉に英士は冷静になる。彼女に痛み分けの聖者を使わせることは避けたい。
「大丈夫です。どこも怪我はしていません。俺の方こそすいません。ずっとディープブルーばかり見ていて、周りのこと見えてませんでした」
「私も部活の準備しなきゃって慌てて何も見えてなかったの」
英士は一瞬きょとんとして、それから「先輩」と声をかけた。「何?」と首をかしげる楓。
「通り魔事件があったので今日の部活は全面停止です」