Act.1 茶道部と吸血鬼
飲み干すときに躊躇いなく音を立てられるようになったのは、いつからだろう。
藤居英士は茶碗の飲み口を人指し指と親指で拭い、指先を懐紙で清める。その所作にも以前は戸惑った。郷に入れば郷に従えという。生まれ育った日本の文化と言えど、カルチャーショックを受けた。
知らなかったときと今の自分はきっと別物だ。
畳の縁の外に茶碗を置いて両手を着く。本来は器に向けるべき視線は、着物姿の鷺ノ宮楓で留まった。伏し目がちな目にかかるまつ毛が輝いている。
藤の花を模した髪飾りが、さらりと下がる。
先輩、綺麗だな
そう思ってる間に何秒経ったかわからない。英士はハッと我に返り、慌てて茶碗を戻した。
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天窓が取り入れた光は銃痕だらけの十字架を照らす。
礼拝堂に入ってきた初老の聖職者カンタービレはそのまま説教台に立った。顔の左半分をおおうケロイド状の火傷もツヤを増す。
カンタービレは血の入った小瓶を弄びながら言った。
「伽織。吸血鬼狩りが街に入ったそうだよ」
「嫌な話をするのね、カンタービレ」
それまで長椅子に寝転がっていた痣野伽織が上半身を起こす。イラついた様子で彼女は髪をかきむしった。
「狙いは何?」
「彼らはジェリコを追ってきたらしい」
革製のブーツに脚を差し込む動作がピタリと止まる。ジェリコ? と痣野は顔を上げた。うなずくカンタービレ。彼女は「はん」と鼻を鳴らしてブーツを履く。編み紐をきつく結び、立ち上がった。
「あの山姥が来たの。わざわざ狩人まで引き連れて。私好みの最悪ね」
特注のナイフを納めたホルダーを肩から提げ、固定具をはめる。ホルダーを覆い隠すためにジャケットを羽織った。
後ろ髪を纏め上げてバレッタで留める。姿なりを整え終えて痣野は身廊に歩み出た。
説教台の側まで寄ると肘をかけ、頬杖をついた。挑発するように上目遣いでカンタービレへと視線を送る。
「まさか私にあの婆さんの護衛なんて依頼しないわよね、お優しいカンタービレ神父様」
「私が危惧しているのはジェリコ以外にも被害が及ぶことだよ。何せ、君も知っての通り、彼女の能力は猜疑心を煽るものだから」
ジェリコの『ついで』で殺されたら、そりゃ浮かばれないわ。
痣野は肩をすくめた。
カンタービレが差し出す小瓶を痣野は黙って受けとる。
瓶の中で揺れる血を眺める。這い上がろうとするようにガラスの内側を赤く染めては力なく滑り落ちていく血液。その様は痣野に地獄を彷彿とさせた。
どんな人が提供したものなのか、物思いに耽っていた痣野はカンタービレの言葉に耳を疑うことになった。
「できることならジェリコも保護したいのだが、彼女は聞き入れる人ではないから」
「冗談! あの婆さんは血を求めて喜んで他人を襲うわ。それも過剰にね。そういう性質なんだから」
吸血鬼にはそれぞれ血の嗜好がある。
女の血を好む者もいれば、嘘吐きや嫉妬深い人間の血を好む者もいる。ジェリコの嗜好は怯えている人間の血を求めていた。彼女の狩りは血の味を自分の好みに仕立てる調理に他ならない。
そして食事は快楽でもある。
蓋を開けて痣野は血を仰ぐ。少ししょっぱく、喉に絡んだ。彼女は顔をしかめる。ああ不味い、と思ったが勢いに任せて胃に流し込む。
そう言えば私ってどんな血が好みだったっけ?
保管期限の切れた献血用のものがカンタービレから定期的に支給される。そのうち、いつしか血の嗜好も忘れてしまった。それでも吸血衝動は、深淵器官は満たされる。
指で唇を拭った。空の瓶を説教台に置く。ガラスの通した光が割れて台を彩った。
「まあ良いわ。夜警くらいはしてあげる」
「頼んだよ伽織。私も他に何人かあたることにするから」
それなら黄金卿を使えば良いのに。
痣野は今このときもハンモックで揺られて寝ているであろう男のことを思い浮かべた。エルダークラスヴァンパイアと聞いているが、一度もその力を振るっているところを見たことがない。
不確定要素が大きいことを鑑みて、痣野は今回も彼を戦力には数えないことにした。
「とりあえず現状わかる限りで良いからヴァンパイアハンターの情報を私のケータイに送っておいて」
ネクサスフォンを横に振る。それから踵を返して痣野は礼拝堂の出入口に向かって歩いていく。そうだ、と彼女は途中で脚を止めた。振り返ることなく、カンタービレに問う。
「情報屋から何か『音』属性の能力と拳法を使う老人に関する情報は、あった?」
「すまないね。それに関しては相変わらずだ」
そう、と短く応えて痣野は礼拝堂を後にした。