窓とカーテン
先日の避難訓練、白い手ショックから一週間ほど経過し、もうじき夏休みに入るという今日この頃、私も所属するこの学校の第一学年では、その影響からか怪談が流行っていた。
女子の流行というものは男子が考える以上にすさまじいもので、ついていけないとあっという間に置いて行かれてしまう。数週間前まではコスメの話やらかっこいい先輩の話をしていた仲のいい女子グループで集まって、今日は同じ口で怪談話を交わしている。図書室からは怪談系の書籍が根こそぎ貸出中になったらしい。
私の幼馴染兼親友であるところの巴歩弥も怪談にはまっており、ここ最近は私も付き合わされながら、コミュ力お化けである歩弥の交友関係の中に跳び込ませられている。お陰様で私の交友関係は瞬く間に広がった。
一方、私の中で断トツの心霊女子二人は、このブームにはほとんど関わっていない。
百花は休み時間のほとんどを寝て過ごしているし、雛菊も我関せずと一人黙々と絵を描いていることが多い……もちろん、茶色のスケッチブックが使われることはない。
この二人、私たちと同室にならなかったら、本格的に二人だけの世界で生きていたのではないかと思うくらいに他者とコミュニケーションを取ろうとしない。二人組を作る時も速攻で二人で組んでしまっているし。
これで二人の席が離れていればまだいいのだが、二人は隣同士、しかも教室の隅であるために、あの二人の独特の雰囲気がそこに溜まっていて、どうにも心理的に近寄りがたい空間になってしまっている。
そして、そんな雰囲気を唯一崩せるのも、尊敬すべき我が親友だけである。勿論、巻き込まれる形で私も。
「ねぇねぇ、ヒナはなんかないの? 怪談」
歩弥がそう雛菊に切りだしたとき、私はびくりと肩を震わせた。自分で思っているよりも、あの日の雛菊の体験談がトラウマになっていたようだ。
雛菊は少し考えたあと、ゆっくりと語り始めた。
「前に、寮の部屋の洗面所の鏡の前に、こっちに背中を向けて立ってる男を見たんだけど、鏡にも背中が写ってた」
ゾッ、とした。
百花は寝ているし、歩弥は「なにそれー」と笑っている。この、怪談と言うにはあまりに簡素な話に恐怖したのは、どうやら私だけのようだった。
怖くない、はずだ。そんなに怖くない、ありきたりな、そう、同じような話が廉価版のように出回っている、ごく一般的と言うのも烏滸がましいような、ちょっとした驚かし。
それなのに、なんだろうこの言い様のない不安は。犯した失敗を、ピタリと言い当てられたような不安。
雛菊は、歩弥を見ていない。話しかけていたのは歩弥のはずなのに、その目は私を捉えていて、私は見ていられなくて。
息が止まって、目を背けて、廊下の方へ目を向けて、そこに男が背を向けて立っていて、男が正面を向けているはずの窓には、男の背中が――
「そこまで」
百花の声で我に返り、私はその場にへなへなとへたりこんだ。廊下は、私の位置からは人垣で見えなかった。
「和泉で遊ぶなって言ったよね、私」
「うん、でも、面白くて」
「気持ちはわかるけど、やりすぎ。わざわざ合わせるようなことしないの」
百花が雛菊を叱っている。雛菊が、何かしたみたいだ。何をしたのかは、理解できないけど。
雛菊はいたずらの成功した子供のように笑っている。私は笑えなかった。
なんだかんだ言って、怪談よりもこの子の方が、やっぱり私は怖い。
じゃあ次私ね! と。雛菊に続いて歩弥も話し始める。彼女自身は、心霊体験とかそう言った類いのものに全く縁がない。
それこそ、生まれてこのかた一度も、彼女は心霊体験という心霊体験をしたことがないのだ。この間の白い手ショックの時も、結局白いモヤとも手とも直接遭遇していない。
だから、彼女が話すのは全て誰か、他の友人か本か、インターネットからの受け売りだった。
そして残念なことに、彼女には決定的なまでに、怪談を話す才能がなかった。
「なんかさ、ここの美術準備室? に、カーテンが掛かりっぱなしの窓があるんだよ。んで、その窓の向こうは、異次元に繋がってて、窓を潜ると二度と戻って来られないんだって」
こんな感じである。
才能がある人なら、それこそ雛菊なら、如何様にもおどろおどろしく話すことができただろう。しかし、歩弥には真面目にやってもこれが限度なのである。
しかしまぁ、言いたいことは伝わってきた。さっきの雛菊とは怖がらせる技術こそ天と地ほどの差があるが、内容の程度は同じくらい、ありふれた陳腐な怪談。
隠された異次元への扉。潜ると戻ってこられない。ありがちな話だ。
「それ、あくまで作り話だよ?」
珍しいことに、白黒霊感コンビの作り出す雰囲気に気圧されることなく、私たち四人に話しかける猛者が現れた。
振り返ってみると、立っていたのは濃い茶髪をショートにした少女。私はあまり話したことはないが、安東さん、だったか。
歩弥とは仲がいいし、よく話しているのを見かける。雛菊と同じ美術部だからか、雛菊に部の連絡を伝えているところも見ることがある。私にとっては、その程度の印象のクラスメイトだった。
話を聞くに、美術部である彼女は部の手伝いで準備室へ入ることもあるが、そのような窓は存在していないとのこと。
怪談にマジレス……とも思いはしたが、それで美術室にマイナスの印象がつくと、来年からの新入部員誘致に差し障りが出てくるのか。それにしても少々過敏だが。
歩弥と安東さんが話し始めた隙に、私は雛菊に確認をとってみた。
「本当にないの? 窓」
「知らない。私、手伝い頼まれたことないし」
力仕事を任せられるような外見でもないし、そもそも頼み事が出来るような雰囲気を持っていない雛菊は、美術準備室へ入ったことはないらしい。
一方の百花は、そもそも美術室に入ったことがないそうだ。そういえば、選択教科も彼女は意外なことに私と同じ音楽である。
とは言え、実際に入ったことのある人からの事実確認。完全にデマだと発覚したわけであり、この怪談とはここで縁が切れると、そう思っていた。
◇◆◇
偶然と言えば偶然。百花に言わせれば、恐らく「惹かれた」と答えるのだろう。私に、その数日後に委員会の用事で美術準備室へ立ち入る機会が訪れた。
荷物を美術準備室の机へ置いて、一息つく。美術準備室には、画材や胸像、あるいは、卒業生の作品などが雑多に積まれていた。
あの話をふと思い出して見回してみるも、パッと見る限りそれらしき窓は見当たらない。
やはりデマだったかと美術準備室を辞そうとしたとき、ヒュッと、頬を微風が撫でた。
振り返ると、胸像に遮られて見えにくくなっていた位置に、黒い暗幕がたなびいているのがかろうじて見えた。
生唾を嚥下する。指先が震えているのが自分でもわかる。その場の空気は下に向かっていて、重く溜まっているような雰囲気がある。ただ暗幕の向こうから吹いている風だけが、部屋に漂う異物だった。
スカートに吊り下げてある御守りを手で触れて確認する。百花から新しく貰った御守り。効果はあると信じている。
胸像たちに出来るだけ触れないようにしつつ、部屋の奥へ進む。果たして、好奇心は私を殺すのだろうか。
それでも、確認しようとするのを辞められないこれが、「惹かれる」と言うことなのだろうか。
暗幕のすぐ手前まで来ると、よりはっきりとそこから吹き込んでくる風を感じることが出来る。
私は、暗幕の端に手をかけて、ゆっくりとそれを、捲った。
そこから見えたのは、壁だった。恐らくは隣の建物の壁だろう、のっぺりとした混凝土の壁が見えた。
肩から力が抜ける。ここから潜り抜けることはできない。壁と壁の間に吹き込む風が、窓からこちらへと吹いてきたのだろう。
防犯的にもあまり意味がない。壁と壁の間は15cmもない。人間が通り抜けられるような隙間でないのだから、入ることも出ることもできない。
もしかしたら、換気のために普段から開けっぱなしになっているのかもしれない。湿気に弱い作品も、ここには保管されているかもしれないし。
そういうことなら、閉めるのはよくないかもしれない。そう思って踵を返して、今度こそ美術準備室を出ようとした時だった。
ズリッ
と、何か、湿ったものが擦れる音が、背後から聞こえてきた。
全身が粟立った。本能に近い何かが、危険だと叫ぶ。それは或いは、濡れた足音と、或いは白い手の痕跡と、出会った時と同じ感覚。
全身の産毛が逆立つ。非日常がすぐ傍まで迫っている。部屋の雰囲気が陰鬱に変わったのがわかった。
先ほどまでは吹き込んでくる風が異物だった。しかし今は違う。この部屋においては、私こそが異物だ。
息苦しい。肺が膨らまない。焦点が定まらない。生臭さが鼻を突き、吐き気がこみあげてくる。
平衡感覚が消失かのようにグラグラと頭が揺れる。頭の中に雑多な考えが浮かんでは消え纏まらない。
ぷつぷつと電灯が点滅する。もう風はないはずなのに視界の外、すぐ後ろでバタバタと音を立てる暗幕。
ぞわぞわとした感覚に、一瞬焦点が合う。私を取り巻くように配置された胸像の目が、揃って私を見つめていた。
さぁっと血の気が引いていく。全身が冷えて、クラクラと頭が揺れる。
意識が遠のくその瞬間、私は何かが笑うのを聞いた。
◇◆◇
目を覚ましたのは、ベッドの上だった。
夢オチ、と言うわけではないだろう。家のベッドではなく、保健室のベッドの上だった。
「目、覚めた?」
すぐ横から気だるげな声が聞こえて、私は半ば確信を抱きながらも、声の主を確認する。
色の抜けた白髪を揺らして、百花が眠そうな目をこちらに向けていた。
「美術準備室行ったって聞いて、嫌な予感して行ってみたら、案の定」
百花が懐から何かを取り出す。それは、黒く炭化した御守りの残骸だった。
そして恐らく、それは私が持っていたそれだったのだろう。もし持っていなかったら、私は一体どうなっていたのだろう。改めて全身に震えが走る。
「何があったか聞いていい?」
百花は、新しい御守りを私に渡しつつそう聞いてくる。私は小さく頷き、私が体験したすべてを話した。
聞き終わって、百花は考え込む。
「惹かれた……んだとは、思う。でも、多分今回のことは、雛は関係ない」
だから恨まないであげて、と、言外に言っているように聞こえたのは、私が百花を、雛菊に対して過保護だと思っているからだろうか。
でも、大きくは間違っていないと思う。つまり、雛菊に脅かされたのは、今回の事件とは関係ないと言うらしい。
「質が違う。今回のは、場所か物に縛られてるやつだから、雛のあれで合うとは思えない」
「そ、その……合う、って?」
「うーん、波長、かな。私や雛は波長の幅が広いから、色々拾っちゃう。和泉はそこそこ広めで、例えば喜友名さんなんかは、自分から波長を合わせてしまう体質」
要するに、ラジオみたいなものなのか。
「なかなか合う人がいるとは思えない。私は見えたけど……あれは多分、すごい局所的な、呪いの類だと思う」
「呪い」
「はっきりとした悪意と害意があったよ。あれには。だから、私には見向きもしなかった。和泉は、たぶん対象に波長が似てたんだろうね。運が悪かった」
また運か。どうにも、私はそれに振り回されている気がする。
それにしても、呪い。生命の危機を感じさせるほどの、強烈な呪い。そんなものが、こんな近くにあった。気づきもしなかった。
「それで……あの窓は……?」
「…………」
え? 何その沈黙は。
「……そっか、窓に見えるのか」
「ちょっと? 怖いんだけど?」
「あの部屋、窓ないよ」
……え?
「で、でも、目の前に壁のある窓が……」
「あの位置に窓があったら、すぐ隣は霊園でしょ。壁がある建物なんて建ってないよ」
ふっと、体温が下がったような気がした。
当たり前のように受け入れていたものが崩れていく、足場がなくなったような感覚。
そして、百花は続ける。
「暗幕の裏にあったのは、窓の描かれたキャンバスだよ」
どこかで、何かが這いずったような気がした。