血宴
先ずは将軍に密かに幼帝と語らわせ、幼帝に僅かな供のみを連れて丞相の邸へ見舞うよう提案させます。
兄に似て賢く育つ要素がある幼帝が、邸で見たものは
―――最早忠誠の対象が自分にはないとはっきり解る、死期が見えているだけに何を仕出かすか解ったものではない手負いの丞相でした。
ここに来て幼帝はやっとこの血腥い謀に諾し、舞台は整ったのです。
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矢傷の治る見込みのないままに政務を続けるのは身体によくないと、明日は丞相の為の宴を催すと、そう陛下が仰っていたと将軍自らに出向かせました。
あれでもまだ魂魄を捧げている訳でもない『陛下』直々のお誘いが光栄と感じるのか、『動けるからには参内しなくては』と、丞相は笑ってみせたそうです。
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さて、宴の当日。
私は差配通り、近衛の兵に混じって宴席の近くに控えておりました。
幼帝が口ばかりは丞相の容態を心配し、丞相はそれに答えます。
勿論丞相とも個人的に仲の良い者も宮中には存在し、何より丞相自身もある程度は警戒して手勢を入れておりました。
丞相は宴席の酒には手をつけず、ご持参の薬酒を飲んでおいででした。
―――心配せずとも、毒など用いませぬのに。
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着替えの為に宴席を抜けた将軍に、問いかけます。
『事は為せますか』
将軍は、自身に満ちた声で答えました。
『あれぐらい隙があれば十二分だ。褒美は必ず頂くぞ』
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上から下まで武装した一団が宴席に戻りました。
丞相殿は――なんと、こちらを伺うでもなく何処か遠くを眺めている様子です。
今まで一度もこんな様子のあの男を見た事はありませんでした。
疾風の様な勢いで、将軍は背後から丞相の心臓めがけて戟を打ちました。
何が起きているのか解らない様子で、丞相は刃を見つめました。
『逆賊・諸葛恪に、天誅を下す!』
自分の身に何が起こったのかをやっと理解した丞相は、短刀を抜きましたが、もう間に合いません。
将軍が戟を捻りながら抜くと、そのまま倒れ込みました。
「卑怯なっ!」
丞相の近習が抜刀し、将軍に斬りかかりましたが、しかしその攻撃は彼の指を僅かに傷つけるに留まり、あえなく彼の右腕は宙を舞いました。
丞相殿の躰には幾つもの白刃が振り下ろされ、そのほぼ全てが真紅に染まりました。
灯火の方ににじり寄りながら、何事かを呟いたようにも思えましたが、
やがて、左手を落とすとその動きを止めました。
暫くして、宴席の騒ぎを聞きつけた大多数の近衛と臣達が押し寄せて参りました。
将軍は彼等を一瞥し、告げました。
『詔が下り、丞相だったこの逆賊を殺した。もうこいつは死んでいる、これ以上の刃傷は無用だ』
腰の刀を抜き、彼の首を打ち落としました。
左手にそれを携え、私の元へ歩み寄ります。
―――ほら、お前の所望していたものだ。これで満足か。
耳元で囁くと、
『首から下は筵に巻いて石子崗でよかろう。殿上を血で汚したのは本意ではない、疾く清めよ!』
首を持った私以外の兵は、宴席を元の様に拭き清めました。
幼帝に、尋ねるものがありました。
『陛下、詔はまことでしょうか』
幼帝は血宴に動じた様子も見せず、『まことだ』と答えました。
その時、私は、この最も幼い弟に、紛れもない兄の面影を見ました。
今この瞬間は、大人たちの言う儘を聞き、印綬を押すのみの存在に相違ないでしょう。
しかし、何れ、彼は満ち足りず、自らが大権を振るおうとする日が遠からずやって来る。
『さあ、陛下。馬鹿騒ぎの間にもう夜も更けてしまいました。血を見た後で眠りに就くのは恐ろしいでしょうが、乳母たちや女官が護って下さるでしょう』
全くその通りだと言わんばかりに、瞬く間に乳母が幼帝を連れて後宮に引っ込みました。
『各々方、今夜は私を独りにしてくれたまえ。明日からは、私が奴の重責を引き継ぐのですから』
そういって、百官と私以外の兵を下がらせ、宴席には私と将軍、それと彼だけが残りました。
孫峻単独だったら、まだ諸葛恪にも勝ち目がありました。
孫亮も見限っていたのを解らなかったのが、諸葛恪の敗因。