江南の公主
※ここから、魯班の一人称…というか自分語りになっています。
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私の母は、私の知る限りでは父に最も愛された女でした。
父は貴方によく似た、常人と異なる毛の色と瞳の色を持っていたのですが、それ故にあらゆる人々から奇異の目を向けられ、人と言うものを何処か信じきれないお方でした。
「奇異の目か。わしはそれ程そのような目を向けられた経験はないのだがな」
あなたの様な毅き精神を保たれている方は幸いです。
若しくは目が引付られても口には出さぬ慎み深い方々に囲まれていたのでしょう。
母は後漢末の戦乱を逃れ、一族と共に江東に渡り、その兄が父上に仕えるようになった縁で父の後宮に入ったのです。
私の俗名である『魯班』は、古代の工神の名と同じであります。父は、私に何か新しい物を造り出す期待をしていたのでしょう。
父の家系の女達は、皆、虎の様に猛々しい者達でした。その様な強き女であれ、と私の字には『虎』という女には似つかわしくない字が入っているのです。
事実、私は幼い時分から女に与えられたモノでは満足できない性分であったのです。
私には、女の路を外れようとしない妹に、父の性情をよく受け継いだ弟も居ました。
それでも、私達姉妹は父の最愛の娘である自覚もありました。
男児の形をして宮外に出た事も、一度や二度ではありませぬ。親は勿論その度に叱りましたが、父と母とでは叱り方の語意が違うようでした。
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十になったかならぬかの頃のある日、『腹違いの兄』という男が東宮に入りました。
女官たちに彼の母親について聞いてみても、誰も解りません。
侍女に言い含めて直接父から聞き出そうとしても、『お父君も思い出したくない模様でした』と、話してはくれませんでした。
「何故、腹違いの兄弟の母親の事が、そんなに気になった?」
あの長兄は―――父上とはまた違った、異質さを有しておられたのです。
父上は確かに異相の持ち主でしたが、それでも人である事は確かでした。
ですが、長兄は…常人と変わらぬ相と柔らかい表情でありながら、言い知れぬモノであるような感覚と話している気分になりました。
『どうもこれは、母親由来の異質さだろう』と推測は出来ましたが、もしかすると、あの兄の母は、人ですらなかったのかもしれません。
そして、東宮に入った長兄には、幾人かの家臣の子息たちが教育係として付けられました。
元は武官の子であった者。
その父は普段から酒宴の事などで父上と衝突していた者。
寡黙ながら、的確な言葉を持つ男を祖父に持つ者。
私が特に関心を持ったのが――――温和なその父とは正反対の性質を持つ、口達者な男でした。
やがて、年頃となった私は、父の亡き重臣・周公瑾の長子に嫁ぐ事が決まりました。
父上は、そのお方を『その父に似て美しく、そして知と勇を兼ね備えたお方だ』と評しておりました。
事実、その通りで御座いました!
今思い返しても、私はあのお方より美しい殿方を未だに目にしていないのです。
私の婚儀の最中、もう一組の婚儀が整いました。
それは、長兄と、私の夫となる方の妹君の婚儀でした。
周公瑾殿は、むかし、鳥の羽根を集めた扇を携えて、中原から江南に押し寄せた大軍を焼き尽くしたお方です。
その江を遡り、中原と天下を二つに分け合おうという夢は、儚く消え去ったのですが。
「聞き方が悪いが、あなたの義父となったお方は、江を越える気はなかったのか」
―――私の父の兄、つまり私からみて叔父上に当たる方は、江南から天下を奪う企てがありましたが、その江南を得るために多くの恨みを買い、ために命を落としました。
父上は叔父上から『お前は国を守る事には向いているが攻める事には向いていない』と遺言されていたらしく、叔父上と義兄弟であった義父上は『天下が一つである必要はない』と父上の為の新しい、いや古の天下を提示したのです。
――― そういえば、あなたは義父上の果たせなかった大業を達成したお方でもありましたね。
「はは…確かに、長く生きるとは意外と大事だよな」
その通り―――義父上は、若くして命を失ったが為に、大事を為せませんでした。
そして―――あのお方は、その父の欠点までも見事に引き継いでいたのでしょうか、私が二十歳になる前に逝ってしまいました。
巷では、寡婦は再婚せずに節を守り通すのが美徳とされています。
しかし、人口の少なかったその頃の江南では儒の教えは軽んじられ、人を増やす為に女は常に何処かの男のものでいる必要がありました。
私も最初は亡夫に孤閨を捧げとおす心算でした。
寿命以外の何もかもを天から授けられていた亡夫以上の男を捜すのはより輝く星を数えるようなものでしたから。
両親の説得により、私はほぼ同時期に正妻を亡くした銭塘の豪族、全氏に嫁ぎました。
―――彼は父とそう変わらぬ年齢で、前妻との間には幾人もの男子がいました。
私はいくら豪族に嫁いだとはいえ、前の夫との比較から逃れられませんでした。
一方、未婚だった妹もほぼ同時期に呉郡で名の知れた朱家に嫁ぎました。
妹の夫も十歳以上離れていましたが、仲睦まじい事は語り尽くせませぬ。
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父が帝位に就くと、兄は太子となりました。
――― その地位は、産んだ母のいない為に、また他に男子が居た為に決して安泰とは言えませんでした。
私も、実を申せば兄の事は最後まで認める事が出来ませんでした。
兄を産んだのが何処の誰とも知れぬ女なら、育てたのはとうに父の宮を追われた女でした。
父上は母上を事実上の皇后の様に扱い、兄にも『母上』を敬う様に言い含めていましたが、兄は『私の母は、呉の街に取り残されたあなたの夫人です』とあくまで認めませんでした。
幾度、『この身が男であれば』と唇を噛みしめたでしょう。
母上は男児を産めなかった故に、生前皇后になれなかったのですから。
『魯班』は古代の工神の名だけど、妹はわからん。
そしてただでさえ強い一族の女に、『虎』等と名付けた孫権の思考回路。
赤壁で羽扇を持っていたのは、昔の伝承では周瑜だそうです(予想通り、演義でとられたらしい)
東晋から蜀を得た桓温は、ある意味彼の悲願を達成した形。
全琮は、生年に諸説ありますが父と同年代で。