終章
「それからは、こうして比丘尼の形をとって人々に水を分け与えておりますが、他人の闇や幸福なぞ私の知った事では御座いません。唯、あの男を私に屈伏させる為だけに私はこの世で咲き誇り、舞い続けるのです」
「では、女達の病は癒せるが、よもや邸の男達に―――」
「その様な事はございませぬ。邸の男達は、私が近づくだけで勝手に命が水を求め、奪い去ってゆくまでです―――最も、この邸に辿り着くまでにはその様な事もありましたがね」
「わしの、闇を除く事は出来ぬか。わしは、あなたの様な目には遭いたくないのだが、しかし帝に拝謁するたびに、玉座が目に入る度に、視界が揺らいでしょうがないのだ」
「どうぞ私の水をお飲みくださいませ。しかし貴方の闇は貴方がその生を懸けて向き合わなければなりませぬ。青史に善き名を残したければ、の話ですが」
尼僧の、桓温に何処かよく似た碧い瞳が、輝いた。
***
その翌日、尼僧の姿が桓温の邸から消えた。
風呂焚きにその行方を尋ねられた桓温は、「風呂の長いのを注意したら、『迷惑をかけすぎた』と言い残して荷物を纏めて出て行った」と説明した。
尼僧が消えても、桓温の野心は消えたわけではなかった。洛陽が再び夷狄の手に落ち、北伐で大敗しても江の南では最大の権力者であり続けた。
皇帝の首を挿げ替え、玉座を奪おうとしたがその前に病に倒れた。
病床で、桓温は『どうしてわしは善き名も悪しき名も後の世に遺そうとしなかったのだろう』と呟いたという。
桓温の跡は幼くしてその才能を愛された桓玄が継いだが、桓玄は玉座を奪うのを躊躇おうとしなかったが為に、その身を亡ぼした。