闇を宿す
男が去ると、寝室の空気が冷えたように感じ、肌寒さを感じた私は残された質素な衣服を身に纏いました。
『…女には、もう少し煌びやかな衣服を送るのが筋ではないのかしら?』
寝室を出ても、あばら家を出ても、もう男の気配はありませんでした。
更に藪を越えた所で。
『おや、見慣れぬ別嬪さんじゃ。お前さんは一体どこから越して来たんじゃ』
―――二十歳になるかならぬかの若い農夫でした。
『都から―――とでも言おうかしら』
『へええ、都からどうしてこんな田舎に…他に身よりはいねえのか?』
『―――いないわけでもないけれど』
『この辺にはいねえんだべ、とりあえずおらの家さ来いや!』
思わずあばら家の方を振り返りましたが、もう藪の向こうには何もありませんでした。
***
訳の解らぬまま見ず知らずの農夫の家に連れられた私は、その日の内に水を奪われました。
翌朝、農夫は『何だか気分がいい』とのたまっておりましたが、私はと言えば何やら臓腑の中で異物が蠢く様な気がして、厠で吐きました。
この様な下賤の男に貪られる為に配所を抜けたのではないわ、と再び逃げ出そうとしましたが、旅費もないのでは話にもなりません。
いや、飢えても死ねないのなら、逃げようと逃げまいと同じであろう。
農夫の家にあったなけなしの銭を貰い、私は再び都へ急ぎました。
***
しかし、銭が尽きたら稼がねばなりません。生まれついての皇女が、独りで生計を立てると言ったら一つしかないでしょう。
私は道々のものに水を売りながら――― その闇を身に湛えつつ―――旅費を稼ぎ、年が終わる日の夕暮れに遂に都の門前へ帰り着きました。
最早私の身は限界に近付きつつありましたが、私を都から追い出したあの男は逆賊として死に、皇籍すら持ち合わせていないのです。
と、丁度何処ぞへ向かう使者が通りかかりました。
先頭に立つのは宮中で幾度か目にした、首の男の子飼いの部下でした。
『もし、内裏の使いで御座いますか』
振り向いた男は―――
『ああ、自ら逃げ出して来たのですか。向こうまで行く手間が省けましたね』
怖ろしいほど、闇に満ちた目で返しました。
『知らないのですか。会稽王が玉座を追われた後、帝位に就いたのが誰なのか。ひいては、現在の皇后様が誰なのか――― 公主様の、姪にあたる御方なのですよ』
全く以て迂闊でした。
父の七人の男子の内、上から四人は既に鬼籍、五男は庶人に落され、七男は先頃廃され―――後は六男のみです。
その六男の正妻は―――私が冥府に追いやった、妹の娘でした。
『陛下は皇后様をそれはそれは深く愛していらっしゃる―――皇后様を悲しませる者は、即ち陛下の敵だ』
男は何時の間にか剣を抜き放っていました。
私は動けぬまま、深々と胴を貫かれておりました。
剣が捻りながら抜かれると、先程までの苦痛が嘘のように軽くなって、倒れ込みました。
***
『黒い犬に咬まれたと思ったら、今度は黒い蛇に咬まれるところであった』
『よもや公主様が黒蛇に憑かれていたとは』
『しかし今までの所業は妖物に憑かれていたから、と報告しても陛下は納得しまい』
『どのみち公主様も助かりますまい、都に入ろうとしたところを間一髪で斬り捨てた、と報告しましょう』
彼等はそう言って、私の首を落としました。
『今度は貴女が、石子崗に葬られる番だ』
***
体内に溜まった闇が蛇の形をとって、剣で貫かれた拍子に体外に去ったのは、理解できました。
しかし、首だけにされたのでは身動きが取れません。
瞼を開けず、唇も動かさないのは難儀でしたがそれも現帝に顔を見せるまでの辛抱だと思いました。
現帝は『朕はあいつを殺す時に見た生首で十分だ、朕も皇后もそんな女の顔など興味ない』と、箱も開けずに立ち去りました。
しかし、宦官が態々夜の石子崗で、私の首の入った箱を私の胴体の側に置くでしょうか?
そうする間にも死の充満した空間で、一向に朽ちぬ私の身は水を貪られるのです!
幸い切り口があるので闇は溜まりませんでしたが、果てなき蹂躙の果てに、目の前が明るくなり―――
『やあ、流石にこのままではつまらないですから首を繋ぎに参りました』
嘗てここに屍を捨てられた男と再会いたしました。
『耳は聞こえますよね?私を見つめる事も出来ますよね?しかし、声は出せまい。貴女はまだ死んでいない。そして私はもう死者である。貴女の首は、貴女のものだ。だから、生あるものが水を奪おうと、犬も鳥もその肉を食荒らす事は無いのだ』
私の首を抱え、胴の近くに歩み寄ります。
『傲慢なる公主様。諸葛元遜も青史に芳名は残せないでしょうが、孫大虎は更なる悪名を遺すばかりだ。これ以上栄華を求めても、賭けの時間が長くなるばかりだ。せめて生けるものに進んで水を与えるならば、賭けの時間は僅かでも短くなるでしょう』
そう言い残すと、また何処ぞへ消えていったのです。
私は何とか首を拾い上げ、闇を抉り出して洗い流すしか賭けに勝つ方法はないと思い知ったのです。




