異肉
妖異の影に脅かされる以外は、流人でも皇女であるが為に、それなりの暮らしは出来ました。
それでも、昔日に比べたら何もかもが虚しいほどのものでありましたが。
秋の終わりに都を追われ、いよいよ冬も極まり、風が膚を刺す頃に。
都の商人が、配所にこの様な噂を伝えて参りました。
『新帝陛下が孫綝を見事誅したぞ!』
『奴の一族も皆殺しだそうだ、もう二度と国は乱されまい』
『まるで一足早く春を迎えたようだ』
私はその話を聞いて思い切り笑いました。
御気の毒様、自分で玉座に就くのを躊躇ったから、殺されちゃったんでしょ。
貴方は年老いた私を嘲笑ったのでしょうが、その私より先に死ぬとはね。
私は何度でも咲き誇る。都に帰って、咲き続ける。
―――真にこの身が枯れ朽ちるまで、私は美しくあり続ける。
簡素な衣服に着替え、幾許かの旅支度をして監視を逃れるのは容易い事でした。
貨幣は大量に身につけていますし、旅費に困る事はないでしょう。
その冬は今までに無いほど寒く、あの男が討たれた日の都では雪が降っていたそうです。
貴方は見たことが御座いますか?―――凍てついた江を。
其れは、人間が渡って通れるほど、厚く張っていたのですよ。
この流れを大きい方へ、大きい方へ進んでいけば女一人でも都に戻れる筈です。
人は、水の流れる所に沿うて生きているのですから。
やがて、とても大きな湖が見えてきます。
配所を抜ける事は出来た、後は岸沿いを北に抜ければ江の本流だ―――
―――と思っていたその瞬間、私の終わりは訪れたのです。
踏み出した右足が沈み込み、冷水に浸かったのを感じました。
引き抜こうと目の前の氷に掴まるまもなく、瞬く間に全身が身を切るような水に囚われました。
と同時に、頸の辺りに刃でも突きつけられたような衝撃が走り、水が紅く染まりました。
感覚も凍っていたのか、痛みは殆ど感じませんでした。
しかし血の多く通う所を傷つけたのか、辺りの水を全て染め上げるほどの紅が体内から失われ、やっとの思いで這い上がったものの、出血は収まらず、寒さすら感じなくなっていました。
最早、動くこともかないません。
今まさに路傍に斃れようとする刹那、男の声が聞こえました。
『其処なるご婦人、如何召されました。まだ息はあるようですが』
聞き間違える筈も無いその高き声に、何とか目を動かすと――――
嘗て私が求めて得た、あの首の顔でした。
『お…前、私…に留…めを刺しっ…に来た…のかね』
武衛将軍の死に様を考えるに、そうとしか思えませんでした。
『留め?とんでもない。偶々私は良い薬を持ち合わせているものですが』
男は、そういって籠を下ろしました。
籠の中には、幾匹かの干魚が入っているばかりで、何処にも薬らしき物は御座いません。
その中の、白い切り身状の未だ活きているような魚を、差し出し。
『これは、海で獲れる珍しい大魚の一種です。とても美味な魚なのですが、こうやって下の方だけを切り身にしてからでないと気味が悪いのでね』
薬?そんな、魚が?
『何、薬効は確かです。そんな傷ぐらい、直に塞がる―――少なくとも、丹石よりは身体に良い筈だ』
首筋の、かなり太い血の管が切れたのです。
魚一切れ食べて塞がるとは、聞いたことが御座いません。
それに、丹石とは―――古代から不老長生を望む者が飲む薬と聴いております。
この段になって、はじめて。
私は、男に究極の二択を迫られている事に気付いたのでした。
『さあ、お択び下さいませ。永遠に滅べぬ苦しみか、それとも此処で凍え死ぬかの何れかを』
しかし、何しろ私は心身ともに弱り切った末に、死を迎えようとしていました。
『滅べぬ…っ花…なのではなく…滅…ばぬ…花…に、な、るのでしょう?いいわ…私、は…枯れぬ花、になってやる…』
どうしても都に帰り着きたい一心で、私はその白魚を口にすることに決めました。
『そうきてくれませんと…貴女はそういう御方だ』
男は、私の手に白魚をそっと乗せました。
凍える様な寒さの中で、みずみずしい白魚の切り身は、どこか温かさを感じました。
一思いに、齧り付くと。
それまでに食べて来たどの様な食物よりも美味なる肉で御座いました。
脂は殆ど感じないのに滑らかで、咀嚼する程になんともいえぬ甘味が湧いてくるのです。
いつの間にか食べ尽くしてしまった事に気付いた時は、『これだけかしら?』と口をついて言いかけました。
『美味だったことでしょう。されど、これは一口でも十分な薬効が御座いますので』
寒さはもう感じませんでした。
痛みももう感じませんでした。
『さてと。貴女の身は未だ血に濡れている。―――粗末な衣ですが、替えはこちらにありますよ』
そう言って、男は私を抱きかかえて道を外れ、藪の中へ入っていきました。
オスカー・ワイルドの戯曲、当初のラストは
『宮廷を追われたサロメは砂漠を彷徨う』
↓
『都に戻ろうと凍った川を渡ろうとすると氷が割れて転落』
↓
『氷がサロメの首を切断し、紅く染まった川を流れてゆく』
というものだったそうです。




