怪尼僧
※横文字詐欺。東晋詐欺。
※一応元ネタは『捜神後記』。
※いきなりエログロになってもうた。
「尼僧が邸の前に佇んで、声をかけても返事をしません」
そんな下男の報告がついこの間建康に戻ったばかりの桓温の耳に入った。
「―――年の頃は幾つに見える」
「見当つきません。老婆には見えませんが、そう若くも見えません」
「それは多分功徳を積んで長生しているのだ。通してみよ」
所が、改めて下男が声をかけても反応しない。
桓温自らが出向いたところ、やっと口を開いた。
「―――父上…」
時の大司馬、それも一度は北狄に奪われた洛陽の奪還を成し遂げた人間にそう言い放つ比丘尼。
「わ、わしにはお主の様な年の娘はおらん!」
「あら、口がすべりましたね。余りに我が父に似ていたものですから」
「―――お主は一体、幾つなのだ」
「建康が、秣陵と呼ばれていた時分より生きております」
建康のもとの名が建業で或る事までは知っていたが、秣陵という名は知らなかった。
比丘尼の父に似ているらしい、青紫に輝く瞳と剛毛を持つ大司馬は、話の種に比丘尼を招き入れる事にした。
***
比丘尼は名も何処の生まれかも実の年齢も明かすことはなかったが、才気と徳に溢れた一個の婦人として邸内の尊崇を集めた。
彼の婦人や下女たちは度々悩みごとの相談に乗ってもらい、気の病のみならず肉体の病をも癒す比丘尼は何時しか崇拝の輪を広げ始めていた。
のだが。
ここに数名、彼女を好む事の出来ぬ一団がいた。
尼僧が桓温の邸に逗留し始めてから三月ほど経った後の事である。
ふとした事で、入浴中の桓温は尼僧の悪口を耳にした。
「あの尼さん、一回風呂に入ったら物凄く長いんだよ!!」
「しかも、やっと上がったと思ったらお湯全部無くなっているし!!」
「水を汲み直して、沸かし直す人間の事も考えて欲しい!!」
すかさず窓を開け、身を乗り出す。
「おい、お前ら随分と罰当たりではないか」
「ひっ!…で、でも、俺らが苦労しているのは本当の話なんです!!」
悪口を言っていたのは、桓氏の浴室の風呂焚き共であった。
その風呂焚きから事情聴取している内に、彼の中にも疑問が生じて来た。
確かに、彼女が入浴してから、次の者が入るまでかなり間が空いている。
彼女が入った後は、彼等は必ず一から水を汲み直している。
世の中には自身の穢れでさえ我慢できぬ程穢いモノを恐れる人間がいるというが、彼女もまたその一人なのだろうか。
それに、若くないとはいえ、道心を持つ女の裸身を窃視してみたいという半ば色欲のような好奇心も否定できない。
***
尼僧が入る直前に、こっそりと、浴室の戸を穴の開いているものに変えておいた。
幸い彼女がそれに気づくことはなく、いつものように浴室に入っていった。
じゃばじゃばいう音が聞こえ始めたので、桓温は戸の前に陣取り、小指の先ほどの穴に目を寄せた。
並の女と、別段変わりの無い入浴風景だったのだ。
最初の内は。
その頭には頭髪がなかったとはいえ、その透き通るような肢体は確かに一時彼を魅了した。
のだが、彼女はおおよそ浴室には似つかわしくない、剃刀とはとても呼べない様な小刀を持ち込んでいた。
(おかしいな、確か彼女は浴室以外の場所で髪を剃っている筈なのだが)
どこの毛を剃る心算だ、と思わず品の無い想像をしていると、
やおらに尼僧は小刀を腹に突き立てた。
見間違いなどではない。
その行為は浴槽の中で行われたので、湯はたちまち紅く染まった。
そのまま刀を横に回し、自らの腹を開ける。
刀を脇に置くと、尼僧は表情も変えずに自らの臓腑を掴みだした。
自らの臓腑を、湯の中でじゃぶじゃぶ洗っているように見えるのは、気のせいだろうか。
鮮血に染まっていた湯が、どす黒く染まり出した。
やがて湯があらかた黒くなった所で、彼女は臓腑をしまい、今度は刀を自らの首に向けた。
(よもや)
次の瞬間、尼僧の首から鮮血が噴き出した。
自らの首を落とし、まるで指揮系統が繋がっているかのように何の苦も無く洗う。
湯は、紅くなったり黒くなったりで忙しい。
その後、首を繋いだ尼僧は手足にも同様の処置を施した。
最早桓温にもゆっくり眺めている心の余裕などなかった。
人間とは、本当に恐ろしい目に直面すると声も出なくなるものである。
口をぱくぱくしたまま、時の大司馬は這って寝室に戻った。
***
桓温は、布団の中で震えていた。
―――とんでもないものを邸にあげてしまった。
―――きっと、わしの首を落としにくるに違いない。
―――いや、害意はなく、ああいう病なのかもしれぬ。
―――自ら臓腑を洗って癒える病など聞いた事は無いが、問い質す外あるまい。
***
再び、今度は剣を携えて浴室に戻ると、あたかも尼僧は入浴を終えて出て来たところであった。
その身体を、しかと目に焼き付けた。
疵一つない、白珠の肌であった。
「―――なぜ」
先に口を開いたのは、桓温の方であった。
「あなたには、きず一つないのだ」
「―――玉座を得ようとする者は、皆ああなるのです」
彼には、心あたりがあった。
***
彼が産まれた時、温姓の者が「英傑が産まれた」と称賛したため、彼の諱は『温』になった。
それを聞いた温某は、『姓を変えるのは難しい事だ』と苦笑したという。
やがて長じた彼は、父の仇をとって名を挙げ、長江を遡って蜀を得た。
上官の北伐失敗を機に軍権を握り、中原を回復した。
其れは、百数十年ぶりの大業であり、同時に彼が百数十年に一度の人物であるという事を示していた。
そして、彼を凌ぐ物は皇帝しかなかった。
彼の本来の性情は、その名の通り至極温かみに満ちたものであったのだが、功と位の輝きはその人の目を眩ませるものである。
其れが他者の輝きなら兎も角、自らの輝きなら尚更だ。
そもそも晋を建てた者達は、玉座を奪う事を躊躇しなかったから皇統になれたのだ。
昔は逆臣と唾棄していた者共には、今では敬慕の念すら湧いてくる。
最早、彼は自らの内に向けられた野心を否定することなど出来なかった。
「私は、嘗て呉国の公主、孫大虎と呼ばれた者です」
「公主?」
「呉国も、私の一族も今では皆消え失せてしまいました。そして、私はその罪障を贖う為に彷徨い続けるのです」
『Salome』はムーミンではなく、聖書の方です。(聖書ではサロメ名義では出ていませんが)
ヤンデレの元祖とか言われているけど、聖書見た限りでは母親のいいなりっぽい。
昔の中国人は、数日に一回の入浴だったらしいですが。
江南だから、華北よりは風呂入っていたと思いたい。毎日ではないにしても。
桓温の家では使用人も沢山いるから入浴ローテーション(?)的なものを組んで風呂自体は毎日沸かしていたと
脳内補完お願いします。
余談ですが、『幸福な王子』の作者がオスカー・ワイルドだと知ってびっくらこいたのは私だけでしょうか。
(何故かアンデルセンのイメージがあった)
桓温は『冷酷に見えて人のいい奴』、
孫権は『度量が深そうに見えて実は疑り深い人』のイメージ。