逆鱗
別方向から同時に飛び込んできた二人と一匹により、数十本もの刃物の雨は一つ残らず防がれました。
「姉ちゃんたち、だいじょぶー?」
「間に合った! 無事か!」
全体の七割は、シモンが刃の腹を打って誰にも当たらぬよう軌道を逸らし、残りはロノがその巨大な身体で受け止めました。
鷲獅子の身体は極めて丈夫な毛皮に覆われているので生半な武器では傷を負わせることすらできませんし、衝撃の大半は強靭かつ柔軟な筋肉と脂肪の層で吸収されます。名工の手による業物ならまだしも、そこらの鎌だの包丁だのでは問題にもなりません。
「鷲獅子だと!?」
もっとも、シモンにとってもこんな場所に魔物がいるのは想定外。
反射的に武器を向けそうになりましたが、
「おぉ、騎士の兄ちゃん、なんかカッコいいなー」
「……子供? 操られてはいないようだが……」
背中にレイルが乗っているのを見て攻撃を思い留まりました。
そして油断なく周囲に注意を向けながらも、眼前の鷲獅子と子供についての心当たりが浮かんだようです。
「む。もしや、あの男の身内か?」
「ん、あの男ってどの男?」
「薄紫の長髪で常にヘラヘラしていて、話していると無性に腹が立ってくる……」
「あ、それ絶対うちの兄ちゃんだ。そっか、そういえば捕まってたんだっけ。兄ちゃん元気?」
髪の色と長さはともかく、いつもヘラヘラしていて話していると苛立ちが湧いてくるという特徴で、レイルはシモンの言う「あの男」が兄だと確信したようです。ある意味、スゴイ信頼関係でした。
そうこうしているうちに、助けられた側の面々もようやく混乱が収まってきたようです。
「そういえば、少年よ。さっき『姉ちゃんたち』がどうとか言っていたが」
「げっ」
「あ、あの……ぁう……」
「ふむ、ここはまだ危ない。巻き込まれぬよう、そこから動かずにいるがいい。色々と聞きたいこともある。よいな?」
別の意味では更なるピンチを迎えていましたが。
シモンは先程の声をしっかりと聞いていたようで、レイルの視線の先にいたリンとルカにもきちんと気付いている様子。まだ包囲は続いていますし、騒動に乗じてこっそり逃げるのも無理そうです。
「た、助かった!」
「こ、今度こそ死ぬかと思った……ぅぷ……」
『ヤバい、シモンさん超カッコいいの!』
一方、特に後ろ暗いところのない三人、レンリとルグとウルは助かったことを純粋に喜んでいました。特にシモンに熱を上げているウルの喜びようは尋常ではありません。
「む、誰かと思えばレンリ嬢たちではないか」
シモンからすれば、この場に見知った顔がいるのは非常に不思議な事態だったのですが、すぐにとある可能性に思い至ったようです。
「もしや、本を……? そなたら、一つ尋ねるが紫色の表紙の本に心当たりはないか?」
「え? あ、はい、カバンの中に。後で届けるつもりだったんですけど」
レンリ自身もすっかり忘れていましたが、逃げ出す前にカバンに入れた禁書がそのまま入れっぱなしになっています。
「やはり、か。詳しくは後で話すが奴らの狙いはその本だ」
「えぇっ!?」
レンリが驚くのも無理はないでしょう。その禁書に載っているのは、相手に軽い好意を抱かせる恋のおまじない程度の魔法だと完全に信じていたのですから。
『あの人達、見た目によらず意外と乙女チックなのね!』
「なんという恋愛脳!? 恋はヒトを狂わせるとは聞くけど、まさかこれほどとは! っていうか、あれって比喩とかじゃなかったんだね!?」
『我もひとつお利口さんになったの!』
だから、欺瞞情報を信じ込んでいたレンリとウルが、こんな愉快な誤解をしてしまうのも仕方がない……のかもしれません。あるいは、散々走り回った上に命の危機に晒され、精神が変な方向にハイになっているのでしょう。
「……まあ、話は後だ。積もる話はあるが、とりあえず場を収めるとするか」
話したいことは色々とありますが、それにはまず危機を脱しないことには始まりません。
走ってきたルカに撥ね飛ばされたり、追跡中に怪我をして脱落した者もいるとはいえ、広場近辺には見える範囲だけでも五十人近い傀儡がいます。やはりシモンの読み通り、この場に追い込んで捕らえようと待ち伏せていたのでしょう。
操られている彼らは一斉投擲で失った武器の代わりに、周囲の商店や無関係の民間人からナイフや剣などを強奪して構え、慎重に間合いを詰めていました。
鷲獅子という見るからに強力な存在と、いかにも腕が立ちそうな騎士が標的を守っているせいで、彼らに指示をしている術者が警戒しているのでしょう。
どうにか隙を作ろうとしてか、数台の馬車を道幅一杯に並べて、今にも走らせようとしていました。このまま走らせれば操っている人々ごと轢き潰すことになるでしょうが、そんなことを今更気にする相手ではありません。
標的ごと鷲獅子や騎士を押し潰せればそれでよし。
そうでなくとも生まれた隙を利用して本の入ったカバン――――奇しくも先程のシモンとレンリの会話から特定できた――――を奪えればよしという二段構えの算段。
この場で迂闊に本について言及したのはシモンの失策でした。声が聞こえる距離まで近付かずとも、唇を読む技能があれば会話内容は把握できます。やはり、普段に比べ冷静さを欠いていたのでしょう。
ですが、そんな些事には、もはや何の意味もありません。
「……よくも、この街の民を傷付けてくれたな?」
この時、シモンの内心は嵐の如き怒りで満ちていました。
努めて冷静に振舞おうとはしていましたが、その忍耐も既に限界間近。
執務室で指揮を執っている時はどうにか堪えていたものが、街の惨状と、そして操られた被害者を目の当たりにし、とうとう抑え切れなくなりつつあったのです。
「許さん……許してなるものかっ!」
普段のシモンからは考えられないような、凄烈な殺気が全身から放たれていました。彼に守られているレンリ達やロノでさえも思わず恐怖し、震え上がってしまうほどに深く強い怒り。
「俺がいる限り、この者達には指一本触れさせぬ!」
そう、黒幕は逆鱗に触れてしまったのです。