逃走中
「……ミつけタ……」
『歪心の書』によって操られた人々は、共同住宅二階の部屋から外を窺うルカに視線を向け、一斉に階段に殺到しました。
彼らが探していたのは最優先目標である『回心の章』。
そして、前日商業区の露店で景品を獲得し持ち去った三人の少女。
三人のうちルカ以外の二人も、ちょうどこの少し前から街中を逃げ回っていました。それに少し遅れて、残る一人の居所に辿り着いたということなのでしょう。
「ちょっ、なんなのよ!」
リンとルカは大慌てで室内に戻り鍵をかけましたが、扉を殴りつける音が連続で響きました。狭い通路に十数人もが一度に押し寄せ、数の暴力でこじ開けようとしているのです。
元々この共同住宅は格安家賃のボロ物件。
木製の扉がメキメキと音を立て、それどころか大勢の体重が一度にかかったせいで建物そのものが軋み始めていました。このままでは一分もしないうちに扉が破られ、部屋の中に殺到してくるのは確実でした。
「なあ、何が起こってるんだよ!」
「あ、えっと……分かん、ない……人が、いっぱい……」
手首足首を縛られて自由に動けないルグが尋ねますが、ルカたちにだってワケが分かりません。
一応、集団が狙っているのはこの場においてはルカだけなのですが、この状況で誰がどうして狙われているかなんて、判別するのは不可能です。
「もう扉が保たないっ!? ルカ、逃げるわよ。その子、持って」
「う、うん……っ、し、失礼……します」
「おわっ!?」
建物の強度からして篭城は下策。
即座に逃走を選択したリンに従い、ルカは転がっていたルグを抱え上げました。
両腕を背中と膝裏あたりに回して持つ、いわゆるお姫様だっこの体勢です。普通は性別が逆なのですが、そんな事を気にする余裕はありません。
「で、でも、逃げるってどこからだよ? この部屋に裏口なんてないだろ!?」
逃げるにしても、この部屋の唯一の出入り口である扉は使えません。
丸二日近く過ごした経験から、ルグはこの部屋の構造は既に覚えていますし、まさかこんな賃貸物件に隠し扉なんて気の利いたものがあるはずもなし。
しかし、問題はありません。
道がなければ作ればいいのです。
「大丈夫よ。ルカ、壁を壊しなさい」
「う、うん……えいっ!」
「ぐぇ」
ヒト一人抱えたまま、ルカは軽く助走を付けてから壁に体当たりをして、扉と反対側の壁にドカンと一発、見事に大穴を開けました。
ちなみに壁にぶつかる直前に身体を半回転させてちゃんとルグを守っていました。それでもそこそこの衝撃があったようで地味にダメージを受けていましたが。
ですが、そんなダメージを気にする間もなく。
「ルカ、跳ぶわよ!」
「いやっ、待て! せめて、これ解いてく」
自分の意思で飛び降りるならともかく、両手足を縛られたままで、人に身体を抱えられた状態で落下するのは非常に恐ろしいものがありました。
これでは受け身を取ることすらできません。
ですが、背後からは、とうとう扉が破られたような破砕音が聞こえてきます。
悠長に縄を解いている余裕はありませんでした。
「え、ええと……ごめん、ね?」
「ぐぇ!」
ルカに抱えられたまま二階の高さから落下し、ルグは壁を破った時に倍するダメージを受けました。
◆◆◆
この時、リンとルカにとって幸運だったのは、扉から外の様子を見るためにあらかじめ靴を履いていたことでしょう。
生活スペースの関係上、日頃から床を寝床として使っている彼女達の部屋では、室内では靴を脱ぐ習慣がありました。
もし靴を脱いだ状態だったら、飛び降りた後に走るのは難しかったと思われます。
肉球やヒヅメを持たない人間の素足は柔らかく、ちょっと小石を踏んづけた程度でも簡単に怪我をしてしまうのです。
常時無意識に肉体を強化しているルカはそれでもどうにかなったでしょうが、リンが足を怪我でもしたら、足手まとい二人を抱えたまま逃げるハメになってしまうところでした。
「……俺は裸足なんだけど」
「ルカに持ってもらってるんだから必要ないでしょ」
残念ながらルグだけは靴無しです。
わざわざ持ってくるだけの余裕はありませんでしたし、どさくさに逃げられるリスクを考えたら仕方ないといえば仕方ありませんが。拘束している縄もそのままで、依然ルカに抱えられていました。
「俺の剣、壊れてないかな……」
「服……せっかく、買ってもらった……のに……」
ちなみに、随分と風通しが良くなってしまった共同住宅ですが、走って逃げようとした直後に建物ごと倒壊しました。捕まった時から置いてあるルグの剣も、昨日買ってもらったばかりのルカの服も、それ以外の家財一切もまとめてガレキの下。
元々安普請だった上に、数十人分もの体重が一度に不安定にかかったのと、ルカが壁に大穴を開けた時の衝撃が致命的だったのでしょう。
他の住人にとっては災難ですが、不審な集団のうち少なくない割合が倒壊に巻き込まれて足止めを受けたおかげで、距離を引き離すことができたともいえます。
……死人が出たかどうかについては五分五分といったところでしょうか。
あの共同住宅に住んでいるのは冒険者か労働者などの昼間は空けている者ばかりなので、無関係の住人が巻き込まれた可能性は低いはずなのですが……。
ともあれ、他人や物の心配をしているヒマはありません。
幾らか減ったとはいえ背後からは不気味な連中が追いかけてきていますし、時折前方や横方向からも同様の虚ろな目をした傀儡が迫ってきます。
最初の何人かまでは平和的に、リンがナイフで脅して追っ払おうともしたのですが、
「あ、これ無理ね」
すぐに断念しました。
普通、ヒトは刃物を向けられたら怯えるなり、逆に攻撃的になるなりといった反応を見せるものですが、傀儡はまるで無反応。
リンは家業の関係で、近所の飲食店の用心棒として、悪質な酔っ払いやクレーマーを刃物で脅かしたり軽く突いて追い出す仕事もしたことがあるので、その違和感にすぐ気付けたのです。
それに大きな通りが近くなると、正常な市民の目も増えてきます。
いざとなったら止むを得ないとしても、迂闊に刃物を振り回すわけにはいきません。
「え……えいっ」
この状況では、どちらかというとルカの怪力のほうが有効です。
道を塞がれても相手が十人程度なら問題なく強行突破できますし、追い付かれて掴まれそうになっても振り払うのは難しくありません。
むしろ怪我をさせないよう注意するのが大変でした。
「…………ぉえ」
まあ、ルグをお姫様だっこしたままなので何をするにも彼にダメージが入り、ついでに走った時の振動で酔ったのか気持ち悪そうにしていますが、それはこの際仕方ありません。
いわゆる止むを得ない犠牲というやつです。
そうやってひたすら走り、やがてルグが白目をむいてぐったりしてきた頃、三人はようやく聖杖前広場にまで到達しました。
そう、偶然か必然か、この三人もレンリたちと同じ場所を目指していたのです。