禁書
一夜明けた翌朝。
表面上は何事もないかのように、爽やかな初夏の日差しが街を照らしていました。
昨日からやけに巡回の衛兵の姿が多いとはいえ、大半の住人は学都に異変が迫っていることになど気付いていませんでした(仮に情報を公開していたらパニックや集団暴動に発展していたかもしれませんし、情報規制は妥当な判断だったでしょうが)。
彼らにとっては、今日も普段と変わらぬ日常の一幕に過ぎないのでしょう。
しかし、それでも確実に、悪意の毒はじわじわと街を蝕みつつありました。
◆◆◆
マールス邸の二階にあるレンリの私室。
そこで、レンリとウルが昨日の数問い札で手に入れた書物を検分していました。
昨日は朝から夕方まで遊び歩いたのですが、ウルはまだまだ元気一杯。
昨夕の別れ際、何故だか妙に重苦しい徒労感を滲ませていたルカほどではないにしろ、レンリもそこそこ疲れていましたが、根気よくウルの質問に答えてやっていました。
『へえ、恋の魔法なんてロマンチックね』
「いや、一応禁書のはずだからね、コレ?」
今現在二人がページを覗き込んでいるのは、渦中の『歪心の書』の下巻にあたる『回心の章』。
特徴的な紫の色合いと趣味が悪い装丁によって、レンリは昨日景品を入手した段階でその本が禁書指定されている物だと気付いていました。
「ま、禁書っていっても大したのじゃない。一通り目を通したら騎士団に届けるとしようか」
『あ、その時は我も付いてくのよ? シモンさんに会いたいもの』
「はいはい、分かってるよ」
ですが、レンリが知る情報はあくまで、一般に公開されている禁書リストの内容まで。
あくまで恋のおまじないレベルの、禁書としてはさほどの危険度がないものだと完全に思い込んでいました。昨夜のうちに騎士団に届ければ、この後にまた違った展開があったのでしょうが、公開目録の内容が欺瞞情報であるという前提がない以上は仕方ありません。
『でも、どうしてこんなのが景品に混じってたのかしら?』
「多分、店の人も気付かなかったんだと思うよ。禁書の公開目録なんて、普通の本屋さんはわざわざ目を通さないだろうし」
『そうなの?』
「書籍を扱ってるお店が商品の真価に気付いてないなんてのはよくある話でね。だからこそ、セドリみたいな商売も成立するんだし」
セドリ(背取り)という商売を一言で表すと、書物の売買と鑑定業を合わせたようなものでしょうか。大量の在庫を抱える古書店では、店の人間も気付かないうちに希少価値の高いレア本が棚に並んでいたりすることがあります。
書棚を見て正確な価値を見極め、安く買い付ける。
そして価値を理解している店や個人を相手に高く売る。
その差額で儲けるのがセドリという商売です。
「多分、昨日の店の人はどこかでまとめ買いしてきたんだろうね。どこかのコレクターが手放したやつか、質屋に流れた物か、大方そんなとこだろうさ。で、どうせ景品にするやつだからって、値段だけ見てロクに中身を読んでいなかったんだろうね」
裕福な貴族や豪商は屋敷に自前の図書室を持っていることも少なくないのですが、本の所有者である当主が代替わりをしたりした場合、残された家族が価値を理解しないまま売り払ったり捨ててしまったりといったことがあります。
それが単に高価なだけの本なら、価値を知らぬ者が知らぬ間に損をしたというだけの笑い話で済みますが、中には魔道書や禁書の類を好んで集めるコレクターもいるのです。
所持しているだけで罪になるような危険な品。
むしろ……だからこそ、持っていることに意味がある。
実際に実行可能な財力や行動力があるかはさておき、ジャンルを問わなければそんな風に考える好事家は決して珍しくありません。武具類や毒物や凶暴な危険生物など、常人には理解不能なモノを集めるのが大好きだという変人はいつの世にも一定数存在します。
しかし、大抵のコレクターは自分一人で眺めるなり同好の士に見せびらかすなり、狭い範囲だけでひっそりと満足しているので無害といえば無害。その手の趣味人は僅かな傷や汚れにも神経質な者が多いので、厳重に保管されます。
だからこそ摘発も容易ではないのですが、このような状態であれば危険な品が実際の被害を生む可能性は極めて低いでしょう。
問題は、所有ではなく、実際に使用することを目的とする者の手に渡った場合。
名刀・名剣は飾られていれば鑑賞に値する美術品ですが、人を斬るのに用いれば、それはもはや単なる凶器。効率的に人を害し得る手段でしかないのです。
◆◆◆
レンリは午前中一杯を読書に費やし、参考になりそうな術式を紙に写し終えると、『回心の章』をカバンにしまいました。ちなみに途中まで一緒に本を眺めていたウルは途中で飽きてしまい、ベッドの上をごろごろ転がっています。
「さ、そろそろ出かけるよ」
『はーい、とうっ! ふふん、“こーでぃねーと”もバッチリなのよ』
ウルはベッドから跳ね起きると、掛け声と共に一瞬で着替え――――正確には変形――――を終えました。昨日覚えた服の中から気に入った物を組み合わせたようで、薄手のブラウスに落ち着いた紺色のプリーツスカートという、避暑地の別荘に来たお嬢様みたいな格好をしています。お目当てのシモンに会えるかは分かりませんが、騎士団本部に行くということで気合を入れているのでしょう。
「今日は叔父さま達は迷宮だし、ついでにどこかでお昼を食べて行こうか。何か食べたい物は……おや、ウル君どうしたね?」
のんびりと出かける支度をしていたレンリは、何やら怪訝な表情を浮かべるウルに気付いて問いかけました。どうやら、屋敷の外にヒトの気配を感じたらしいのですが……。
『ん~……? なんだか、お家の外にいっぱい人がいるみたいなのよ?』
「うん? そんな物音なんて聞こえないけ……ど」
『お姉さん、どうかしたの?』
レンリは表通りに面した側の窓から外を見て、そして思わず言葉を失いました。
眼下にいたのは三十人近いヒトの群れ。
ですが、明らかに尋常な雰囲気ではありません。
普通、これだけの人数が集まったら話し声なり足音なりの物音が少なからず聞こえるはずですが、まるで死体のように静かに、ただ視線だけを屋敷に向けて観察していたのです。
そして、その内の一人が二階の窓から顔を覗かせる二人に気付くと……、
「……みツけた……」「……ミつケタ……」「……みツけた……」「……みつケた……」「……ミつケタ……」「……みツけた……」「……ミつケタ……」「……ミつケタ……」「……みつケた……」「……ミつケタ……」「……ミつケタ……」「……みツけた……」
生気の宿らぬ目をジッと向けながら、抑揚のない発音で「見つけた」と呟き始めました。これならば怒鳴り声であったほうが、まだ怖くなかったかもしれません。
少し離れた位置で道を塞ぐ異様な集団に文句を言っていた一般の通行人も、あまりに異常な光景に顔を青褪めさせていました。
『な、なな、なんなの!? 怖い!』
「わ、私だって知らないよ!? 怖い!」
ウルもレンリも、この状況にはすっかりビビっていました。
これが凶暴な魔物のような分かりやすい脅威であったなら、二人がこれほどまでに怯えることはなかったでしょう。武器や魔法で倒すなり、助けが来るまで篭城するなりといった方法で対処することもできます。
ですが、理解できない、理屈が通用しない恐怖というのはとても厄介です。
なまじ相手の姿が普通の民間人そのものであるだけに、先手を打って攻撃していいものなのかも分かりませんし、倒せば事態が収束するという保証もありません。
それにそもそも、この時点のレンリたちには、どうして見ず知らずの集団に囲まれているのか、全く分からなかったのです。
そして、彼女達が混乱している間に、状況は更に悪化しつつありました。
『あのヒト達、一階の窓割ろうとしてるみたいなのよ!?』
「正面扉もだ!? このままじゃ建物に入ってきちゃう!」
もはや冒険用の装備に着替える猶予もありません。
レンリは部屋着のまま剣と禁書の入ったカバン、それと泣きそうになっているウルの手を掴むと廊下に出て、一か八か、集団がいる表通りとは反対の裏庭側の窓から飛び降りました。