歪心の書
レンリたちが数問い札で遊んでいる頃のこと、騎士団本部地下の独房区画にて。
昨夜からこれまで一睡もせず、飲まず食わずでサイコロ勝負を続けていたシモンが神妙な顔を浮かべていました。
三つのサイコロを投げ、その和が多いほうが勝ちという単純なゲーム。
シモンは、ラックの操る力加減や回転の具合で狙った目を出す技を観察し真似ることで、日付が変わる頃にはほぼ習得していました。こうなると、あとは体力と精神の我慢比べです。
それ以降はお互いに最高目の“18”を連発。
延々と引き分けを繰り返し(時折、技量の差でシモンがミスをして負けることもありましたが)、勝負が1700巡目を超えたあたりでようやく疲労で集中力が途切れたラックがミスをして、ようやく一勝を掴んだのです。
ですが、シモンが険しい顔をしているのは、何も疲れているからではありません。勝利の対価として得た情報が、予想を遥かに超えて事態の深刻さを予感させるものだったのです。
「……もう一度確認するが、そいつは紫色の本を持っていたんだな?」
「ああ、間違いないよ。装丁の具合とかもさっき言った通りね。なんせ、勝負の最中もこれ見よがしにテーブルに置いてたくらいだし」
「そうか……最悪だ」
シモンが聞き出したのは、例の違法賭博を仕切る眼帯の男について。
捜索のための僅かな手がかりでも得られれば儲けモノと思い、だからこそ丸半日以上も悠長にサイコロ遊びに付き合っていました。
ですが、もし仮に勝負前に本のことを知っていたら、手段を選ばず、それこそ後で違法捜査を糾弾されるのを覚悟の上で暴力的な拷問を行わざるを得ないと判断していたかもしれません。
「んん~? あの本、何かヤバい物なのかい?」
「……禁書だ」
禁書とは、その存在自体が禁忌とされる書物の意。
内容は千差万別ですが、人心を惑わす邪教の経典や、独力での大量虐殺すら可能とする術の習得法を記した魔道書など様々で、種類によっては単純所持のみで重犯罪に処されるようなシロモノもあります。
「禁書、ねぇ。でも所詮は本でしょ?」
もっとも、その方面に疎いラックにはピンと来ず、精々「高く売れそうだ」くらいにしか思っていませんでしたが。
「そんな甘い物ではないのだ……くそっ、危険を承知で姿を見せたのはそれが狙いか!」
「あ、ちょっとどうしたのさ? もしもーし」
この期に及んで呑気なラックには最早目もくれず、シモンは足早に地下独房を去りました。
「非常呼集だ!」
地下から戻ったシモンは、休む間もなく呼集の号令をかけました。
その表情からは深い焦りが窺えます。
「各隊の隊長格を全員集めろ、非番の者もだ!」
「はっ、直ちに!」
シモンの執務室に連絡を受けた指揮官級の面々が集まるまで三十分弱。
残念ながら非番で隊舎を出ている者、訓練や任務で本部を離れている者もいて全員ではありませんが、もうこれ以上待つ余裕はありません。
集まった隊長たちも、団長のただならぬ様子を前に緊張を顕わにしています。
そんな彼らに対し、シモンは重苦しい口調で告げました。
「……例の眼帯の男が『歪心の書』の、少なくとも片方を持っていると思われる」
『歪心の書』とは国家に禁書指定されている魔道書の一種。
上巻である『転心の章』。
下巻である『回心の章』。
二冊を合わせて『歪心の書』と称される。
書の存在自体や装丁に関する特徴は、所在を掴み適切に管理する目的で公表されており、魔法使いや法律家の間ではそれなりに知られています。
禁書に指定された理由は、人心に著しい変容をもたらす特殊な精神魔法の習得法が記され、同時にその魔法を発動させるのに必須の魔道具でもあるから……とされています。少なくとも表向きには。
「精神魔法はタダでさえヤバいのが多いが、コイツは特に最悪だ」
シモンの様子は極めて真剣ですが、この時点ではまだ、事態の重さは正確に伝わっていないようです。それどころか、『歪心の書』と聞いて執務室内の空気が多少緩んだほど。まあ、前提とする知識が違う以上は無理もないかもしれませんが。
「入団試験の勉強で国が公表してる禁書のリストは叩き込みましたけど、『歪心の書』っていわゆる『惚れ薬』の魔道書版ですよね?」
まだ二十代の若い騎士が挙手をして発言しました。言外に、どうしてその程度のことでこれほど慌てているのか、という意図を含ませて。
『歪心の書』は他者の心に働きかけて術者に対する好意を抱かせるという、ある意味ではロマンチックと言えなくもない恋の魔法が記された書物として存在を公表されています。
これだけならば、禁書としてはまだ比較的マイルドな内容でしょう。
同様の効果を及ぼす魔法は他にもありますし、効能の程度を問わなければ市井の魔法薬店でも、惚れ薬と称した媚薬の類が販売されています。そういう品はあくまでもおまじないの範疇を出ませんが。それらの延長線上と考えれば、『歪心の書』を軽く見てしまうのも仕方ないかもしれません。
「それは本来の効果を秘すための欺瞞情報だ。そういう使い方も嘘ではないが本来の用途は別にある」
ですが、その惚れ薬のような効果は、完全な嘘ではないにしても正しくありません。
本来の性能、その危険性を隠しながら所在を探り当てるために、あえて情報を偽って公表しているのです。
「……今から話す内容は我が国の機密に当たる。俺も団長になった時に初めて知らされたことだ。くれぐれも他言せぬように」
シモンとしても、ここでそれを明かすのは本意ではないのでしょう。
ですが、これから起こり得ることを考えれば最低限、隊長格への危機感と、事態の正確な把握・共有は必須事項。その為には、『歪心の書』の本当の効果を話すしかなかったのです。
「精神魔法で他者の心身を操作しようとした場合、普通は術者が一人一人魔力を与えて操ることになる。だが、いくら熟練の魔術師でも一人の魔力には限界があるし、必然的に操作できる人数にも限界がある。並みの術者なら精々十人がいいところだろう」
それが、いわゆるオーソドックスな精神魔法。
魔法の流派や使い手次第で細かな部分は変わってきますが、術の持続時間や操れる距離、人数に制限があるのが普通です。それはそれで悪用すれば惨事に繋がりかねませんが、使い方次第という点では他の魔法とさして違いません。
精神魔法とはいえ必ずしも忌避すべきものではなく、例えば戦闘時の精神高揚や心的外傷の治療といった類の用途であれば非常に有用ですし、多くの国では危険度の低い術であれば習得したり教えたりすることも合法です。
それに、どれほどに鍛えられた魔法の使い手でも、燃料となる魔力には限りがあります。
また、術者が死亡や気絶、睡眠時など、意識が途絶した場合にも術が解除されてしまうので、悪用を考えたとしてもおのずと限度があるでしょう。
「しかしだ、『歪心の書』に記された術にはその限界がない、らしい」
今となっては推測することしかできませんが、数百年前に書を記した魔術師はよほどの天才で、そしてそれ以上に悪辣な発想の持ち主だったのでしょう。
たとえ魔法などまるで使えなくとも、この世界の人間は誰しも魔力を有しています。
術者の魔力に限りがあるなら、操った相手の魔力を使えばいい。
術が切れそうになったら、対象自身にかけ直させればいい。
そうすることによって、魔力量や持続時間の問題を見事にクリアしてのけたのです。
「だが、アレは二冊が揃った時にこそ真価を発揮する」
しかし、魔力量だの持続時間だのはまだ序の口。
前述の効果に関しては本がどちらか一冊だけあれば使用できますが、本来二冊で一組の魔道具である『歪心の書』の真価は別の部分にありました。
「俺が読んだ資料によると、術による操作がヒトからヒトへ『感染』するらしい」
一冊しかない場合には、操作対象に術者が直接対面で魔法をかけねばなりません。
一度操ってしまえばそれ以降は術が勝手に持続するとはいえ、最初の一回分の魔力は術者が負担しなければならず、操る相手を増やすにも呼び出したり攫ったりで相当の手間がかかります。
しかし、二冊が揃った『歪心の書』なら、その欠点もなくなります。
最初の一人さえ術にかけてしまえば、あとは疫病のように感染が拡大。人々の魔力を本人にすら気付かぬ間に変質させ、自我のない操り人形にしてしまうのです。
「こうなると、もはや術者は自ら術をかける相手を探すまでもない。忠実な奴隷がいくらでも増えていくというわけだ」
「で、でも、それなら大本の術者を、その……殺せばいいんじゃ?」
「……それは最後の手段だな」
禁書による人心操作という重罪であれば、犯人はほぼ間違いなく極刑に処されます。あるいは捜査中に抵抗して戦闘になれば、「事故」で死ぬ可能性もあります。
そうなったら、確かにそれ以上の感染者が増えることはなくなりますが……。
「術者が死んだ場合、操られている者は心が壊れて廃人になるのだとさ。下手をすれば一晩でこの街が滅ぶな」
術者自身が自らの意思で魔法を解かない限り、安全に束縛を脱する方法はない、とされています。一度感染が広まってしまえば街どころか国が滅ぶ可能性が常に付きまとうのです。
「で、でも、そんなの実際に起こるはずが……!」
「実例もあるぞ。歴史を学んだ者ならポルペア市の名は聞いたことがあるだろう? 二百年ほど前に当時の我が国で首都に次ぐ人口を誇った大都市だ」
「あ、はい、たしか疫病が蔓延して廃墟になったっていう…………まさか?」
「表向きは疫病ということになっているが、実際は堕ちた賢者が『歪心の書』によって操った市民に殺し合いをさせたという話だ。なんでも、そいつが本を造った張本人らしい。その術者本人は当時の国王陛下が遣わした強襲部隊に討たれたらしいが、肝心の本は散逸してしまい今に至るというワケだ」
不幸中の幸いは、散逸の過程で二冊の本がバラバラになっていたことでしょうか。
ヒトからヒトへ、古書店の片隅や好事家の貴族の本棚などを流れる過程で、不完全な術で良からぬことを企む者も出たようですが、そのおかげでこれまでは大事に至らなかったとも言えます。
なお、当然歴代の国王も無論本の回収をすべく手を尽くしてはきました。
ですが、時折それらしき事件はあっても、まるで本自体に意思があって逃げ出しているかのように忽然と足取りが消えてしまうのです。
なんの因果か、この時代、この学都に、再び二冊が集ってしまったようですが。
あるいは、これも本同士の意思が引き合った結果なのかもしれません。
「まだ感染らしき報告はないから、恐らくは奴も一冊しか持っていないのだろうが、一冊だけでもヒトは操れる。ふざけたことに、俺達は何があろうと絶対に犯人に死んでもらうわけにはいかぬのだ」
現時点でいったい何人の一般市民が傀儡となっているかは不明。
もし、今この瞬間に眼帯の男が転んで頭を打って死ねば、それだけで何百人という民が道連れになるかもしれません。
今、騎士団の彼らがすべきことは大きく二つ。
「犯人を生け捕り、術を解除させること。そして、この街にあると思われる、もう一冊の本を確保すること。相手も人海戦術を取り得る以上、これはスピード勝負だ。街中の書店、貸本屋、個人の蔵書までくまなく調べ上げよ!」
「「「はっ!」」」
◆◆◆
その晩、学都某所。
「ふんふん、なるほど。女のガキの三人連れね。で、その中の十歳くらいのガキに景品の本を持ってかれたと?」
「……はイ、その通リです……」
二冊の片割れ、『転心の章』を手にした眼帯の男モトレドが、昼間商業区で数問い札の露店を開いていた店主に事情を聞いていました。
すでに心を操られているのでしょう。
虚ろな表情を浮かべ、質問に対し何一つ偽ることなく答えています。
「おい、そのガキの姿形を他の連中に教えて探させろ」
「……かシこまりまシた……」
他の連中、というのは店主同様に操られている人々。
一人操るにも結構な手間隙がかかるので、一日に増やせる手駒は精々一人か二人程度でしたが、この街に来てからモトレドがコツコツ造った傀儡は現時点で百人を超えます。
この人数でも曖昧な情報だけを頼りに一冊の本を追うのは大変でしたが、より情報の多いヒト探しならば大した時間はかからないでしょう。
「ガキ相手ならわざわざ博打でトバすより奪ったほうが早いか……」
唐突なシリアスで危険がマッハ




