野生の王国
王宮に到着したシモンが感じ取ったのは、そこかしこから感じられる重々しい空気。
戸惑い、あるいは畏れ、そういったものでした。
表面上こそシモンの知る通りの華々しい王宮。
彼の帰りを知った人々は笑顔を作って会釈や敬礼をしてはきますが、今のシモンは目に見えない感情を肌感覚として感じることができるのです。分かるのは大まかな感情の方向性くらいで、一言一句まで他者の心の中を読み取るような正確性はありません。しかし、何らかの異常事態が発生しているのではという疑念が確信に変わるには十分すぎるほどでしょう。
「ふむ?」
兄王の呼び出しに急ぎ応じるため直接尋ねることこそしませんでしたが、侍従の先導に従って城内を歩く最中にも、いくつか使用人達の噂話が断片的に耳に入ってきました。
小声でのヒソヒソ話が微かに聞こえてきた程度なので聞き間違いという線も否定できませんが、「王太子様の御悩(※貴人の病気の意)が……」のような内容はシモンとしても気が気ではありません。城で働く人々もその多くは真相を知らされていないのか、憶測や誇張混じりではあるようですが、もし本当だったら大変なことです。
このG国の王太子は現国王の長男にして、シモンにとっては年上の甥。
現在は近衛騎士団長としても活躍する人望厚い好青年です。
その団長の座も血筋によってのみ与えられたものではなく、弛まぬ努力あってこそのもの。
流石にシモンには及ばぬものの、一般的な基準からすれば十分に一流と言ってよい剣技を習得した武人であり、また社交や学問を疎かにすることもない努力家でもあります。豪快な兄貴分のような気質で城の者からも好かれていました。無論、シモンもその例外ではありません。
やや目の前の物事に熱くなりすぎるきらいはあれど、周りのフォローで十分にカバーできる範囲。その性質も見方を変えれば美徳となり得るものでしょう。
彼ほどの男が次期国王になるのならG国の未来も安泰だろうと、城中のみならず国内外で広く評判になっていた王太子ですが、そんな彼が本当に大病を患ったのであれば穏やかではありません。
事は一国の将来を左右しかねない一大事。
なにしろ王族であるシモンですら、今しがた王城に立ち入るまではまったく想像すらしていなかったほどです。相当に厳重な箝口令が敷かれているのかもしれません。
「いや、決めつけるのはまだ早い」
何にせよ、実際に本人なり国王なりから話を聞くまで決めつけるのは禁物です。先程の噂話にしても単にシモンが他の何かと聞き間違えたとか、話していた誰かの想像にすぎないという可能性も否定できません。
「ところで、陛下は何処に? 謁見の間とは別方向のようだが」
「は、陛下は近衛の訓練場におわします。まずは見てもらうのが早いだろう、と」
「はて、いつぞやのように近衛を鍛えろということだろうか?」
そしてもう一つ。
先の噂話に比べたら些細なことですが、シモンにはもう一つ気になる点がありました。城内を先導する侍従が向かっているのは、謁見の間や王族の私室があるのとはまったくの逆方向。近衛騎士団の訓練施設です。
以前にシモンが滞在した時のように近衛の騎士達に稽古を付けろという頼みであれば、これは特に問題ありません。三度の飯より鍛錬が好きなシモンは喜んで引き受けるでしょう。しかし、わざわざ国王自らが現場に足を運ぶ必要があるかというと、やはり疑問が残ります。
「城が、なんというか……この辺り、妙にガタが来ているような?」
違和感は訓練場に近付くほどにより大きくなっていきました。
石造りの壁や床に亀裂が走り、窓ガラスが割れ、明らかにそれらの補修が追いついていません。どこから入り込んだのやら、割れた窓越しに猿だか狼だか獣の鳴き声まで聞こえてきます。
貴人が利用するような施設より優先度は落ちるにせよ、一国の要たる王城がこれほどボロボロのまま放置されるというのはあり得ないことです。
そしてやたらと目に付くのはあちこちの立て看板や、臨時に設置されたと思しき錠前付きの扉の数々。最初は破損した建物に踏み入った誰かが倒壊事故にでも巻き込まれないようにするためかとも思われました、実際看板にはそのような文言が書いてありましたが、この数はあまりにも異常。誰かが入らないようにするためではなく、この先にいる何者かを封じて出さないようにするかのような意図が感じ取れました。
シモンが知らないうちに戦争でもしていたとでもいうのでしょうか。
それともこの周辺の区画が、突如としてどこか別の異世界にでも通じてしまったか。
答えは、どちらもハズレ。
「シモンか、待っていたぞ……」
「兄上! 城のこの状況は何なのですか?」
「あれを見ろ、見ればわかる……」
シモンの問いに、王は言葉ではなく指差しで答えました。
指の先にあるのは、まさに国家の最精鋭たる近衛騎士団の訓練場。選び抜かれたエリート達が、より強き王家の盾たらんと日夜研鑽を積むための場所です。今もまさに近衛騎士達がより強大な力を求めてトレーニングに励んでいました。
「ぐぎゃっ、ぐぎゃぁぁぁ!」
「キシャ、キシャ、キシャシャシャ!」
「オデ、ミナゴロシ、スル……」
人語を忘れてバーベルを針金細工のように捻じ曲げ、何もいない空間に向けて刃物をめちゃくちゃに振り回し、同僚の手足を掴んでボール遊びのように壁に思い切り投げつけたり、など。
近衛騎士達は、ちょっとばかり力を求めすぎてしまったようです。
元は立派であったろう鎧は訓練中に受けた攻撃で跡形もなく砕けるか、膨れ上がった筋肉によって内側から弾け飛ぶかしており、ほとんどの者は辛うじてボロ布を腰巻きにしただけの半裸の状態。シモンが先程聞いた獣のような鳴き声も、恐らくは彼らが発する奇声だったのでしょう。
更にそれで終わりではありません。
「ヒィッヒッヒッヒ、内臓吐き出して潰れナさぁぁイ!」
「ウホァ!? グ……オデ、ツヨイ、キカナイ! ウホッホァァ!」
魔法の使い手らしき一人が猟奇的な叫びと同時に術を発動させると、驚くべきことに百倍近い強力な重力魔法が訓練場の一部区画を襲いました。今のシモンならこれ以上の魔法も扱えるとはいえ、相当な大魔法です。並の人間では痛みすら感じる間もなくミンチになってしまうでしょう。
しかし騎士達は怯むことなく負荷に耐え抜くと、高重力下とは思えぬ俊敏さで魔法使いの下へと走り寄り、丸太のような腕で殴り飛ばして強引に術を解除させました。
勝利の雄たけびと共に胸をドコドコと打ち鳴らす様子はほとんどゴリラ同然です。どこから調達したのやら、腰巻きに差していたバナナをトロフィーかチャンピオンベルトの如く掲げる姿がより一層のゴリラ味を増しています。
そして一番重要な点がまだ残っています。シモンも最初は気付きませんでしたが、よく見ると今しがた魔法使いを殴り飛ばした個体には知り合いの面影が微かにありました。
「あの、兄上? もしかして、いえ、私の勘違いであって欲しいとは思うのですが。あの毛量少なめのゴリラのような者がですね、そこはかとなく甥御殿に似ているような気が……」
「……残念ながら、そのまさかだ。どうしてこうなってしまったのかは、後ほど分かる限りで説明する。いや、経緯を知っていてもまるで意味が分からんのだが」
まだ具体的な言葉にする前ですが、ここに至ればシモンならずとも呼び出しの用件は嫌でも分かります。真実を知る者に厳しい箝口令が敷かれるのも当然。病気という噂は実態を隠すため意図的に流布したカバーストーリーの類だったのかもしれません。
なんにせよ今のままの王太子が次の国王になったらG国は完全にお終いです。
金貨や銀貨の代わりにバナナが通貨としての価値を持つバナナ本位制経済が誕生し、ウホウホとだけ言って意思疎通するユニークな独自言語が導入されてしまいます。
「シモン、何とかしろ」
G国がゴリラの支配する野生の王国になってしまうのかどうか。
この国の未来はシモンの双肩に委ねられました。




