混沌迷宮
急速に増大しすぎた神力を制御できず暴走し、混ざり合った迷宮。
これを仮に『混沌迷宮』と呼称します。
従来の六迷宮の面影はそこかしこに見られるものの、その実情は読んで字の如く混沌そのもの。曲がりなりにも全ての神造迷宮を目にしてきたルカですが、これまでの経験則が役立つ場面などほぼ皆無と言い切っていいでしょう。
「ひゃぁ、ああ……あぁぁぁ……!?」
『ちょ、ルカさーん!?』
最初にいた森を出て、平坦な草原をアイと二人歩いていたつもりだったのです。突然足下の地面が抜けて、いえ、周辺一帯の地面が丸ごと抜けてそのまま落下してしまうとは予想すらしていませんでした。
「……あぁぁぁ……けほ……これ、どこまで落ちるの、かな?」
『もう随分長いこと落ち続けてるものね。何千メートル? 何万? まさか底無しってことはないと思いたいけど……あ』
「え? わ……っと、と……う、上から引っ張ってぇ」
アイのリクエストに応えたわけではないのでしょうが、その直後にようやく落下が止まりました。推定何万メートルも落ち続けた衝撃がモロに両足に入りましたが、幸いルカはルカなので全身が深々と地面にめり込むだけで済みました。
迷宮としては未覚醒のアイも、この混沌迷宮の内部においては、本体である第七迷宮内にいる時と同等の運動能力を発揮できるようです。ルカと違って周囲の建造物の壁を何度か蹴って衝撃を殺し、こちらは地面にめり込むこともなく無事着地に成功していました。
「手、ありがと……あれ、夜? え、お昼?」
『時間感覚がおかしくなっちゃいそう……』
そうしてアイに引っ張り上げてもらったルカが見たのは、ほんの数秒おきに昼と夜が何度も入れ替わるような忙しない世界。空を見上げれば(もちろん本物ではないのでしょうが)太陽と月が高速で空をぐるんぐるんと飛び回り、残像でそれぞれが帯状にすら見えていました。
時間経過以外で気になるのは、周りに見える無人の街。それも大きなお城や五階層以上の高層建築が建ち並ぶ立派な大都市のように見えます。ルカの故郷であるA国の王都にやや似ているようにも思えますが、迷宮都市や学都、あるいは以前に行ったことのある日本の東京に似ている部分もある様子。
察するに、これまで迷宮達の記録した様々な街が、ミックスされた上で再現されているといったあたりでしょうか。
「お店には……何も、ないねぇ」
『我はともかく、ルカさん用に着替えとか食料とか調達できれば良かったんだけどね』
人の存在しない都市というのは何とも空疎な光景です。
せめて店屋に商品があったり、機械式の交通機関が自動で運行していたりすればマシだったかもしれませんが、建物以外は丸っきり空っぽのがらんどう。ランダムに選んだ建物を百軒ほど調査して、残念ながらそう結論づけるしかありませんでした。
「でも、お腹……空かない、ような?」
『なんだろう? 「復元」の力でも働いてるのかな?』
とはいえ、収穫がなかったわけではありません。
目まぐるしく明滅を繰り返す空のせいで体感での時間経過は分かりにくいのですが、百軒もの建物の調査を完了した点から考えてどれだけ短く見ても三時間や四時間は経っているはず。
なのにルカはお腹が空かないし喉も渇かない。それと、これはこの少し後で判明したことですが、眠くもならないしトイレに行きたくもならない。どうやらこの混沌迷宮の内部においては、時間経過や活動による肉体面の消耗は存在しないか限りなく少なく抑えられる性質があるようなのです。
「それは、便利……で、いいのかな?」
『どうだろ? ストレス軽減とか考えると、消耗はなくても食べられそうな物があったら食べておいたほうが良い気がするけど』
飢え死にの心配がなくなったのは幸いですが、これが良いばかりかというと疑問を抱かざるを得ないところです。滅茶苦茶な昼夜のペースのせいで、ルカの時間感覚はもうほとんどマトモに動いていません。
この状況下でもう何日も過ごしたような気もするし、まだ数十分しか経っていないようにも思える。なにしろ、空腹や疲労によって時間経過を推測することすらできないのです。
アイはもう少しマシですが、本来であれば原子時計並みに正確なはずの迷宮本体の時間感覚にも異常な環境下のせいで狂いが出始めているようです。この事態が解決したら直るのでしょうが、あまり過信はできません。
『結局、手掛かりらしい物はなしかぁ……』
「残念……で、でも他にまだ探す場所は、いっぱいあるし」
流石に全部の建物をとはいきませんが、一通り調べるもこの都市に事態を解決する手がかりとなりそうな物は見当たりませんでした。
しかし、ルカの言うようにこの街は混沌迷宮を構成するごく一部にしか過ぎません。調査を終えた場所に固執するよりも、早く次の場所に意識を向けるほうが幾らか建設的というものでしょう。
「次はあっちのオレンジ色の海みたいな所でも調べてみる? ほら、あの高いビルの屋上から見えたやつ。アレって全部ハチミツだったりするのかしら?」
『うん……どんどん、気になったとこ……行こう、ね』
どのみち、ルカ達には前に進む以外の選択肢はありません。
こう見えてルカはこれまで幾多の修羅場を超えてきた冒険者。これまで様々な事件と冒険とで培ってきた精神力は、一度や二度の空振りで折れるほどヤワではないのです。
◆◆◆
しかし、それが一度や二度ではなかったら?
三度や四度ならまだ耐えられるでしょう。
十度、百度でもどうにか我慢できるかもしれません。
けれど、千か、万か、あるいはそれでも追い付かないほどの何の手応えもない空振りの連続に、果たして人の心は耐えることができるのか?
結局のところルカはこの混沌迷宮を、神々の臓腑にも等しい場所を、あまりにも甘く見積もっていたのです。




