アイとルグ
アイが屋敷から姿を消した直後。
まだ事態を把握してすらいないルグは、大きな買い物袋を両手に提げて屋敷からほど近い通りを歩いていました。ちなみに荷物の内訳はほとんど食材。誰とは言いませんが、なにしろ象よりも食べる人間が一緒に生活しているので、毎日朝昼晩と買い物に出ているのに常に食料が枯渇寸前なのです。
「うん? なんかあっちが騒がしいな?」
屋敷の門まであと角を一つ曲がるだけという地点にて、逆方向の大通りから何やら妙な騒ぎが聞こえてきました。
この街の大通りは常に大勢の人通りで賑わっていますが、そういった健全な喧騒とは異なります。かといって喧嘩や揉め事が原因の剣呑な殺気も感じられません。
しいて言うなら困惑が近いでしょうか。
普段のルグであれば気にはなりつつもお遣いを優先して早く帰宅する選択をしたのでしょうが、今回はある種の予感というか虫の知らせのような感覚が無意識にあったのかもしれません。
両手に大きな荷物を抱えているとはいえ、どうせ大した距離ではないですし、ほんの数十メートルばかり寄り道をして野次馬を……と。
「ちょ、おおおお!?」
ルグは両手の買い物袋をその場に投げ出して、全力疾走で馬車が行き交う道路の真ん中へと飛び出しました。一歩間違えれば大事故に繋がりかねない危険な行為ですが、そんな常識的なことを考えているヒマなどありません。
『あぅ? るぅくん!』
「そうだね、俺だね! なんでアイは一人で道のど真ん中にいるのかな!?」
なにしろ大通りの真ん中で、アイが一人でハイハイをしていたのです。
なるほど、これは先程からの騒ぎにも納得がいくというもの。赤ちゃんが馬車や人力車の走る道路に一人でいたら、悲鳴の一つも上げたくなるというものでしょう。
まだギリギリ日は落ち切っていませんが、もう暗くなり始めてはいますし、視野角の問題で馬車の御者席からは地面の低い位置を這っている赤ん坊などほとんど見えないはずです。もういつ事故が起きていてもおかしくない、かなり危険な状況でした。
「しゃあっ、確保! 危ねぇ!」
「おお、少年が赤ちゃんを助けたぞ!」
「すげぇ、勇気あるな!」
「ったく、それに引き換え親はどこにいるんだよ?」
ルグは無我夢中だったので意識していませんでしたが、いくら幼子を助けるためとはいえ普通は馬車が走り回る道路に飛び込むなどなかなか出来ることではありません。特に今は帰宅ラッシュ時の通行量が特に増える時間帯。二人とも無傷で済んだのは奇跡みたいなものでしょう。
「ルカ! レン! 近くに誰かいないのか?」
『あぅ?』
「アイ、誰かと一緒に来て逸れたんじゃないのか? それとも一人で家を抜け出したとか?」
『あ! がぁがぁ!』
「そうだな、ガラガラだな。見たことないやつだけど、新しく買ってもらったのか? うん、気に入ってるのは分かったけど、質問の答えにはなってないな」
本人に事情を尋ねるも、もちろん望む答えは返ってきません。
機嫌よくガラガラを振り回すばかり。アイのお気に入りのよだれかけには、カンガルーの袋のような形状のポケットがついていて、小さい物ならそこに仕舞っておけるのです。ハイハイをしている時はそこに入れていたのでしょう。
『あい? あー、あぅ』
「そうかそうか。まあ、よく分からないけど運良く怪我せずに済んだことだし、このまま連れて帰ると……はぁ!?」
詳しい事情の把握は後でもいいかと、そのままアイを抱きかかえて立ち上がろうとした矢先のこと。たしかに触れていたはずのアイの身体が、ルグの手の中からフッと消えてしまったのです。
「なっ、えっ、どこだアイ!?」
「今、赤ちゃん消えたよね? なに、イリュージョン?」
「あ、もしかしてこないだのお祭りみたいに実は幽霊だったとか?」
消えた瞬間は近くの通行人も見ていましたが、付近の人々に聞いて回るも行き先に関する手がかりはゼロ。ルグは拾い上げた買い物袋を回収すると大急ぎで屋敷へ駆け込み、そこで初めてアイが行方不明になっていた、そして再度行方不明になったことを知ったのです。




