神の在り方
ただ普通にそうしただけ。
なんとも曖昧なネムの言葉は、実のところこれ以上なく正確に神の力の扱い方を言い表していました。単なる技術の話というより、むしろ神の在り方としたほうが相応しいかもしれません。
『ははぁ、そうなのですか?』
まあ、ネム本人には全く自覚がないわけですが。しかしこの場合は、その『自覚がない』という点もヒントになり得ます。
『前々から疑問に思っていたのですけど、我々姉妹の中でもネムの力は規模といい出力といい明らかに突出しているように思うんです。もちろん能力の性質そのものが違う以上そのまま単純比較はできませんけど、だとしても』
ネムの力強さについては、ゴゴからもこんな言葉が。
『復元』が極めて有用なスキルである点に疑いはありませんが、それを言ったら他の姉妹達もそれぞれ超越的とすら言える独自の能力を有しています。比較そのものが難しいアイは一旦抜くとしても、他の六人の中でもネムの力は根本的な出力が明らかに図抜けている。
ゴゴがそのような疑問を抱くきっかけになったのは、先日の諸国行脚の際のドワーフの地下帝国での出来事。他の姉妹達もそれぞれ全力で戦って活躍してはいましたが、支えを失って崩落しかけた巨大山脈を持ち上げて元通りに直すなど、重量にして何千億か何兆トンか、あるいはそれ以上の桁になっていても不思議はありません。
修復に関しては一旦棚上げするとしても、他の姉妹達がそれだけの重量を持ち上げられるかどうか。否。あの時あの場所にいたネム以外の五人が束になっても難しいというのが正直なところでしょう。
あの時もネムはいつもと変わらぬ穏やかな態度のまま、ごく当たり前のように『復元』を完了させていました。それでいてネムが保有する彼女から感じる神力は、他の皆と変わりない量しかないのです。
『エネルギー量には大して差がないのに結果として出力されるモノには大きな違いがある。ネムと我々とでいったい何が違うのか? しばらく考えていましたけど、今しがた確信に至りました。答えは心、より正しくは世界と自身との捉え方ではないかと』
ゴゴ達はそもそも思い違いをしていたのです。
魔法の応用や延長として『奇跡』を解釈するのが誤り。
神力のロスを失くし効率的に運用するなど、鍛錬としての有用性はありましたが、具体的にそれで何かしらの現象を起こそうという段階においては、それこそ習得の足を引っ張る先入観となりかねません。
エネルギーを使って何かをする。
結果としてそう見えても、それは間違い。
できると信じればできる、ですらなく。
もう既にできている。
ごく当たり前に、ただ普通に、自然とそうなる。
そこに疑問を挟む余地などありません。
神がそう認識したなら、世界のほうがそちらに合わせる。
『その場合の大敵は我々自身が持つ常識や先入観ですね。元々そうしたモノに頓着しないネムにとって、実際それらは無いも同然なのではないかと』
物体は重ければ重いほど持ち上げるのに苦労する。
そんな当たり前に囚われないネムにとっては、崩れ落ちる山脈を元通りに持ち上げるのも、破れた紙をノリで貼り合わせるのにも大した違いはありません。
重ければ重いほど動かすのにより大きなエネルギーを必要とするはず、なんて。そんなルールにいちいち付き合う必要など、いったいどこにあるというのでしょうか。
今、この目の前の光景にしてもそうです。
森の動物達がお茶会を開いてくれたらとっても素敵。
動物の知能? 元々の生態? 道具の出どころ?
そんな細かいことをいちいち気にしていたら、せっかくの紅茶が冷めてしまいます。事実としてそうなっているのだから、わざわざつまらないことを気にして水を差す必要などありません。
『元々、我々にもネムと同じくらいのことをできるポテンシャルはある。エネルギーの保有力そのものは同じくらいなわけですからね。しかし既存の常識や思い込みに囚われている我々は、無意識のうちに自身の潜在能力に枷を嵌めてしまっているのではないかと』
以上がゴゴの仮説でした。
『なるほど、つまり思い込みを捨てればいいってことね! じゃあ早速……それって、どうやればいいの?』
『さあ? 意識しないようにと意識しては、むしろ逆効果でしょうし。正直、我なんか特に苦戦しそうな気がしますね、性格的に……』
とはいえ、言うは易し。
それであっさりできたら苦労はないのですけれど。




