モモ対黒いゴゴ
『会えたら色々聞き出そうかとも思ってたけど、それはもういいのです。お前の正体が、誰だろうが、何だろうが、そんなことはもういいのです』
そう言い終えた時、モモの姿は黒いゴゴの真後ろにありました。
螺旋にねじった髪の毛をバネのように使って跳ねる高速移動。
これには普通の人間が足を使って走るような予備動作、重心の変化や筋肉の力みが少なく、それゆえ行動の「起こり」を捉えにくいといった性質があります。
『くたばれ』
モモが背後から繰り出した髪の斬撃。
首狙いの一撃に黒いゴゴはまったく反応できていないように見えました、が。
『んなっ!?』
『ふふふ、つれないですねぇ。そんなこと言わずに沢山お喋りしましょうよ。対話は相互理解の基本ですよ?』
動体視力を『強化』しているモモの目にはハッキリと見えました。
モモに背を向けている黒いゴゴが、自身の頭越しに振り上げた剣を背中に回して後ろ向きのまま難なく首狙いの斬撃を止めてのけたのです。
迷宮の化身の感知能力は人間とは比べ物になりません。
単に見もせずに背後からの攻撃を防ぐ程度なら、モモや他の姉妹達も音や空気の動きを頼りにやってできないことはないでしょう。 しかし、それはあくまで何の細工もない普通の攻撃であればこそ。
『強弱』により見えにくく、聞こえにくく、空気の流れも乱さずに、極限まで認識しにくくなっているはずの不意打ちで同じ真似ができるかというと、それぞれの固有能力を十全に使ってようやく出来るかどうか。少なくとも簡単ではないはずです。
それはつまり黒いゴゴの戦闘能力は、未だ成長途上のモモ達の全力を余裕であしらえるほど……だとしても、そんなことは止まる理由にはなりません。
一度防がれた程度でモモの怒りは収まりません。
必殺のはずの一撃を防がれた動揺もごく僅かなもの。すでに自身に『強弱』を使用して心の揺れを無視できる程度にまで弱め終えています。
『これならどうです!』
モモはまたもや高速移動。
ですが今度は背後を取るのではなく、絶えず動き続ける作戦です。
迷宮の壁、床、天井を足場に三次元的な移動を繰り返し、その上今度は攻撃の気配を弱めるだけでなく、あえて見やすく聞こえやすく、殺気を強めた攻撃を本命の隠れ蓑としてランダムに織り交ぜるほどの念の入れ方。
これだけのフェイントに加え、髪の毛の斬撃を今度は黒いゴゴの前後左右上下、全方位から同時に千本以上。九割以上の見えやすい髪の中に本命の見えにくい髪を隠した偏執狂的なまでに慎重な攻撃は、
『……ぁ、痛っ』
『うーん、ちょっと期待しすぎちゃいましたかね?』
しかし、黒いゴゴに傷を付けることは叶いません。
代わりとばかりに床に転がったモモの右腕。
そして一拍遅れてきた、本来であれば感じないはずの痛み。
いったい何をされたのかモモにはよく見えていました。
『自分から攻撃に突っ込むことで、モモの攻撃に時間差を付けたってことなのですか』
『はい、正解。攻撃を仕掛ける前に気付けてればもっと良かったですけどね』
『……まったくなのです』
黒いゴゴのしたことはモモが言った通り。
自分から動いて位置を変えたことで、ゼロコンマ一秒のズレもなく全方向から一斉に届くはずの同時攻撃に時間差を生じさせ、順番に対処可能な連続攻撃へと変えてしまったのです。
無論、モモも即座に対応しようとはしたのですが結果は見ての通り。
そもそも全ての攻撃を完璧に見切っていなければ、こんな芸当はできません。双方の実力差は、上腕の途中から切り落とされた右腕が言葉以上に雄弁に物語っていました。
『右腕、拾わないんですか? 人間ならともかく、迷宮ならちょっとの間だけ切り口を固定しておけば繋がるかもですし。それくらいの間なら待っててあげますよ』
『はんっ、その手には乗らないのです』
そう言うとモモは床に落ちた腕には目もくれず、それどころか残っていた上腕の残りまでを肩口からスッパリ斬り落としました。その前腕側の断面には、黒いゴゴの顔面を覆っているのと同じ黒い液体がボコボコと蠢いています。
まんまと口車に乗って落とされた腕を傷口にくっ付けようものなら、そこから侵食が広がってあっという間に全身を乗っ取られていたことでしょう。
『モモの身体を乗っ取る気なら、斬った時にわざわざ痛覚をオンにしたりとか余計な干渉しないほうが気付かれにくかったんじゃないです?』
『それは、まあそうなんですけど……慣れない痛みに苦しむモモはきっと可愛いだろうなって、つい。ふふ、こういう慢心が隙に繋がるのは分かってるつもりなんですけどねぇ?』
モモとしても目の前の敵と悠長に会話などしたくないのですが、先程斬られた際に感じた激痛は少なからず彼女の精神にダメージを残していました。『強弱』を使用して気持ちを立て直し、更にこの先の戦略を組み直す時間が必要です。
まだ侵食されてない部位から先を切り落したことで現在は痛みを感じなくできていますが、この先ダメージを受ける度に同等以上の痛みが襲い来るとなれば代えの利く化身の身体とはいえ無茶はできません。
切断と同時に流し込まれた黒い液体、ゴゴを乗っ取った原因であろうソレは、やはり推測通り迷宮の機能に干渉して支配するような性質を有するのでしょう。痛みに苦しむだけならともかく、モモまで身体を乗っ取られて敵に回るような事態は絶対に避けねばなりません。
『……』
モモは残った左手で自身の首に髪が一本巻かれていることを確認。
万が一のための備えでしたが、ここに至っては気が進まないだの何だのとは言っていられません。いざとなれば即座に自身の首を落として、本体との接続をカットする必要があるでしょう。
ですが、その「いざ」はまだ少し先。
最後の判断をする前にできることが残っていました。
『おや、今度は逃げ場のない飽和攻撃ってところですか?』
今度のモモの狙いは先程以上に単純です。
五十万本の髪の毛全部を最大まで伸長した上で今いる部屋の全ての空間を斬り刻む、逃げ場のない飽和攻撃。黒いゴゴはその攻撃の準備段階として壁や床を這うように伸ばされるピンクの髪の毛を見て、ややガッカリした表情を浮かべています。
『うーん、さっきも思ったんですけどモモの攻撃って速くて重くて数が多い、だけ、なんですよね。なまじ基礎的なスペックが高くて色々できるぶん、能力を一つの目的のために使いこなす工夫が足りないというか、斬撃ではあっても剣術にはなってないというか』
挙句の果てにはアドバイスまでする始末。
部屋の全てを埋め尽くすであろう五十万の斬撃の嵐でさえも、剣一本あれば余裕で凌げる自信があるということなのでしょう。
『はっ、それが遺言でいいのです?』
しかし、モモは今更止まれません。
それに、コレが通じないことまで含めて読みの内なのです。
真の勝負所は五十万の飽和斬撃を防がれた更に先。
より深く先を読み、相手を騙し切った側がこの戦いを制することになるでしょう。
『喰らってくたばりやがるのです!』
およそ二十メートル四方の部屋。
そのほとんど全ての空間がピンクの髪による斬撃の嵐に埋め尽くされました。
切断力を『強化』された髪は迷宮の壁を構成する硬いブロックすらも容易に削る威力。先程の攻撃をわざわざ防いだ技量こそ驚くべきものですが、それは逆に言えば黒いゴゴとて防御せねばただでは済まなかったことを意味します。
もし攻撃が直撃しても傷一つ付かないほど互いの肉体強度に差があったら、完全に詰んでいました。まともに当たりさえすれば、モモにもまだ勝機はあるのです。
『これならどうです!?』
モモが繰り出したのは、床を貫いて通した足裏狙いの刺突。
足下という視界外からの攻撃は、しかし……。
『うーん、やっぱりこの程度が限界ですか』
刺さる直前に黒いゴゴが跳躍して容易く回避されました。
無論、跳んだ先の空間には今もなお高速で動く髪が蜘蛛の巣の如く待ち受けているのですが、それらを問題にする素振りさえありません。
周囲の空間を埋め尽くすほどの斬撃とはいえ、実際に危険となり得るのはその中のごく一部のみ。斬撃の密度が濃い場所、薄い場所を瞬時に見極めて、身体に当たりそうなモノだけを剣で逸らせば問題なし。
それに加えて、この室内を埋め尽くすモモの攻撃には弱点が二つありました。
部屋のほとんどを斬り刻んではいるけれど、あくまで「ほとんど」。
絶対に攻撃が来ない安全圏が二か所だけあるのです。そのどちらかの中に入り込まれてしまったら、五十万もの斬撃も虚仮脅しにすらなりません。
安全圏の一つは、言うまでもなくモモ自身のすぐ近く。
敵より先に自分自身を斬り刻むわけにはいかないので当然です。
モモとしても近付かれることを警戒して、なるべく距離を取るようにしていました。しかし。
『ほらほら、気を付けないと白い我に当たっちゃいますよ? ああ、そうだ。急に突き飛ばしてモモ自身の手で白い我をバラバラにさせてみるというのも面白いかもしれませんね』
もう一つの安全圏は事実上の人質となっている白いゴゴの間近。
そのことを見抜かれたとモモが気付くも、恐るべき剣技で雨あられと降り注ぐ斬撃を容易くしのぐ敵の歩みを止める手立てはありません。未だ釘で磔にされている白いゴゴに近寄った黒いゴゴは、身体と身体を密着させて盾としながらモモの顔が歪むのを楽しんでいるかのようです。
依然、周囲の髪の毛は高速で動き続けているものの、誤って人質を傷付ける可能性や、また敵の言うように不意に斬撃の嵐の中に人質を突き飛ばす可能性など考えると、ギリギリの間合いを見切って敵だけ狙うなどという真似もできません。そんなことを実行したら黒いゴゴは言葉通り、喜んでモモ自身の手で白いゴゴを殺させることでしょう。
『…………』
『なんだ、もう打ち止めですか?』
これ以上同じことを繰り返してもこの敵は倒せない。
そう判断したモモは髪の動きも止めてしまいました。
俯いた顔は長い髪に隠れ、その表情は見えません。
『やれやれ、賢すぎるのも考え物ですね。なまじ勝ち目がないのが分かってしまうだけに諦めが早くなりがちというか。これがウル姉さんなら最後の最後まで絶対諦めずに向かってきてくれたんでしょうけど』
モモが戦意を喪失したと判断したのでしょうか。
黒いゴゴは白いゴゴを盾にすることを止めて近付いてきました。
それを見たモモは、まるで怯えているかのように後ずさるも、元よりさほど広くもない室内。何歩も動かないうちに壁を背に追い詰められる形となってしまいます。
『まあ仕方ありません。こっちの仲間に引き込むのは確定として、その前に消滅しない程度に斬り刻んで楽しませてもらうと…………』
黒いゴゴは言いかけた言葉を最後まで言い終えることができませんでした。
『……ふふ、うふふ、一つ教えてあげるのです』
モモは壁際に追い詰められていたのではありません。
ちょうどいい位置に黒いゴゴを誘導していたのです。
『獣は仕留める直前が一番怖い。それと、獲物にトドメを刺す前に余裕をかます間抜けは必ず痛い目を見る。おっと、うっかりサービスして二つ教えちゃったのです』
先程の部屋中を覆い尽くすほどの無数の斬撃も、この本命を隠すためのオトリ。モモは最初からこの背中に当たる部分の壁を削り、密かに掘り進めることが目的だったのです。
ピシリ、と壁が高い音を立てました。
モモが限界ギリギリまでブロックを削っていたことに加え、すでに壁の反対側の通路はヒナの流し込んだ水で凄まじいまでの水圧がかかっていたのです。戦闘中も聴覚を『強化』しながら水がどの辺りまで来ているかを計り続けた甲斐がありました。
『なっ!?』
『遅い、のです。のろま』
いきなり壁を破って鉄砲水の如く噴き出してきた水に足を取られた黒いゴゴ。
生じた隙は一秒程度のものでしたが、最初からそのつもりで備えていたモモが敵の五体をバラバラに斬り刻むには十分に過ぎました。
逃げるどころか悲鳴を上げる間もありません。
全身を微塵に刻まれた黒いゴゴだったモノは、最早どこが手足でどこが頭だったのかも見分けが付かなくなっています。そしてそのまま実に呆気なく、ヒナの水流によって何処かへ流されていきました。その状態から復活して戻ってくるような様子もなさそうです。
『ふぅ……まったく、こんなことの何が楽しかったのですかね』
念の為、真っ黒い返り血が付着した服の一部や髪も切り離して処分。
そこまでして、ようやくモモは安心して息を吐きました。




