白いゴゴと黒いゴゴ
天空より降り注ぐ大量の水。
たかが水と侮るなかれ。総重量百億トンに達する水塊は単純に落としただけでもその質量で凄まじい破壊を引き起こすことでしょう。
しかし、此度のヒナの狙いは第二迷宮の破壊ではありません。
『捕まえた』
成層圏に浮かぶ球状の迷宮、その上部に落下した水塊が触れるや否や、勢いよく広がった水の飛沫が迷宮全体をスッポリと包み込むべく異様な速度で流れ始めたのです。
そして、その勢いは迷宮表面だけに留まりません。
いくつも存在する迷宮表層の出入口から、ごうごうと音を立てながら大量の水が流れ込んでいました。それこそ迷宮内の通路や部屋の全てを浸水させるほどの勢いです。
流石に神の“なりかけ”の超視力をもってしても、全長五十キロに及ぶ迷宮の内部構造全てを見通せるわけではありませんが、液体の操作に長けるヒナにとって自身が操る水は手足も同然。
必要な箇所に必要な量を流し込むなど朝飯前です。
水流が迷宮内の分かれ道に差し掛かる度にヒナが把握すべき流れは増えており、すでに数百、間もなく千を超えますが、その程度であれば全く問題はありません。
あえて気に掛ける要素を挙げるとすれば直前に迷宮内に潜入したモモの存在ですが、反対側の迷宮下部から突入した彼女の位置まで水流が達するのは、まだしばらく先のことになるでしょう。それに、その頃にはもうヒナによる迷宮の掌握はほぼほぼ完了しているはずです。
『せぇ、の……重っ!? やっぱり宇宙まで引き上げるのは無理ね。でも……』
そもそも何故ヒナはわざわざ迷宮の内外に水を流し込んでいるのか。
浮遊する第二迷宮そのものを液体化して制御を奪う手は、上空に上がってくるより前にすでに試して失敗しています。与えられた力の種類こそ違えど神由来の存在同士、恐らくはゴゴ自身が望まぬ限り他の迷宮の力は多少なりとも弾かれてしまうのでしょう。
しかし、神由来の力が直接絡まないただの水であれば話は違ってきます。
第二迷宮の内外を大量の水で覆い尽くし、その水を操作すれば間接的に迷宮そのものの動きを封じられるのではないか。迷宮の構造を人体に例えるなら、筋肉や神経の仕組みを無視して、体内の血液だけを念動力で動かすことで無理矢理に他人の手足を操るようなものでしょうか。
『とりあえず、街の真上からどかすくらいなら何とかいけそうね。あとは最悪落ちても大丈夫なように、なるべく人里から離れた山奥とかに……運べるかしら? すでに結構キツいけど……ううん。ガッツよ、我! 女は根性!』
理想としては迷宮そのものを宇宙空間まで吊り上げて落下の危険を失くすことだったのですが、まあそれは流石に重量がありすぎて現在のヒナには無理そうです。
次善の策として浮遊している迷宮を横方向にスライドさせ、地上に落下しても比較的被害が少なそうな位置まで力づくで引っ張っていくことが出来そうだと分かっただけでも御の字とすべきでしょう。
迷宮から離れたら剣と化した街の人々の復活も望めるかもしれません。
現在の高度まで上がってきた時点でヒナには見えていましたが、ゴゴの『創世』とやらによる侵食は、この惑星全体を覆い尽くしているというわけではなさそうです。
能力の射程距離は球形の迷宮の直下のみ。
つまりは直径五十キロ、半径二十五キロの円の内側だけ。
剣にさせられる能力の射程外だとしても空にこれほど巨大な物体が浮かんでいるのが見えたら大騒ぎになりそうなものですが、ヒナが上空から見ている限りでは近隣の国々などでパニックが発生している様子はありません。
詳しくはゴゴに聞かないと分かりませんが、恐らくは高度な幻覚や精神操作などで『世界』の外側からは内部の異常が観測できないような仕組みになっているのではないでしょうか。
『変なの。なんだか至れり尽くせりって感じね』
先程話した際の言葉通り、ゴゴは本当に必要以上の混乱を望んでいないのでしょう。もっとも、その正気がいつまで持つかというと非常に心許ないものがあるのですが。
『そういえば、モモのほうはどうなったかしら?』
◆◆◆
飛び散る肉片。
弾ける血飛沫。
『ふむふむ、これは迷宮に元々いた魔物を再利用してるっぽいですね。まったく悪趣味なリサイクルもあったものなのです』
モモが切れ味を『強化』した髪の毛を振るうと、目の前にいた魔物の群れがたちまち見るも無残なバラバラ死体と成り果てました。
モモとしても食べるわけでもないのに無益な殺生をしたくはないのですが、明らかに敵意を持って襲われたら対処しないわけにもいきません。それに襲ってきた魔物達はどう見ても普通の状態ではありませんでした。
いずれも頭部や胴体などがコールタールのような黒い液体にベッタリと濡れ、そこから何十と生えてきている無数の目玉が気配や視認性を弱めて気付かれにくくなっているはずのモモをギョロリと睨み付けてきたのです。
魔物には特異的な身体的特徴を持つ種類も少なくありませんが、これはいくらなんでも異常の度が過ぎるというもの。状況的に考えてもゴゴに憑りついている『眼』に干渉を受けたものと考えるべきでしょう。
『でも、わざわざ邪魔をするということは、この先にモモを近付けたくないと思ってるってことなのです?』
ここまで手当たり次第に迷宮の壁や床に『強弱』を試しつつ走り抜けてきたモモですが、明確な目的地もなく闇雲に動いていても埒が明かないと感じ始めていました。
わざわざ妨害をするということは、そうせざるを得ない理由があるのかもしれない。それ自体が誤った方向に誘導するための罠という可能性もありますが、いずれにしろどこかでリスクを取らねばならないのです。
ならば向かうべきは、より妨害の多い方向。
せっかく見つけたヒントを無視する手はありません。
『ええと、音の感じからして……あっちが多そうなのです』
聴覚を『強化』したモモは、音の反響を利用してコウモリのように周囲の地形や魔物の位置を瞬時に把握。螺旋状に巻いた髪をバネのように弾ませる高速移動術で避けられる戦いは避け、狭い通路を塞いでいるなどして避けられない相手は出会い頭にバラバラに刻んで瞬殺。
そうして一体どれくらいの距離を移動したでしょうか。
遠くから聞こえてくる水音はヒナが流し込んで操作しているものに違いありません。
このままノンビリしていたら数分もしないうちに現在モモがいる部屋にも大量の水が流れ込んできてズブ濡れになってしまいます……が、そんな思考も浮かばぬ異様な光景がモモの目の前にありました。
『おや、いらっしゃい。一番乗りはモモでしたか』
さほど広い部屋ではありません。
およそ二十メートル四方、高さも同じくらい。
その部屋の中央付近にゴゴがいました。
ただし、一人ではありません。
『……ゴゴお姉ちゃん』
『ふふふ、ええ、お姉ちゃんですよ。可愛い妹が訪ねてきてくれて嬉しいですね』
部屋にいたゴゴは二人。
一人は先程地上で皆の前に姿を現した黒い衣装と顔面に黒い模様があるゴゴ。
そしてもう一人は普段と同じ白い衣装のゴゴなのですが、手足や胴体に太い釘が何本も打ち込まれ、金属の柱に磔にされているといった見るも痛々しい格好です。
『…………』
その白いゴゴは饒舌な黒いほうとは正反対に何一つ言葉を発しません。
微かに指先やまぶたが動いていることから生きてはいるようですが、その様子はまるで強烈な苦痛に耐えているかのよう。通常の状態であれば迷宮の化身は自分の意思一つで痛覚をシャットアウトできるはずなのですが、その機能を封じられてでもいるのでしょうか。
『ほらほら、せっかくモモが来てくれたんですから、白い我も挨拶くらいしたらどうです?』
『……ぅ、ぐ……あっ』
『あはは、そうそう、やればできるじゃあないですか。挨拶は人間関係の基本ですからね。まあ我々人間じゃないんですけど。あっ、これ迷宮ジョークです、笑うところですよ?』
黒いゴゴはどこからか取り出した剣を掴むと、その切っ先を拘束されている白いゴゴの脇腹に捻じ込むように突き入れました。ゆっくりと、じわじわと。殺すための攻撃でないのはモモの目にも明らかです。何らかの秘密を聞き出すとか、心を折って屈服させるための拷問ですらありません。
ただ苦しめるだけ、楽しむためだけの娯楽としての加虐。白いゴゴの口から苦悶の声が漏れるのを聞いて、まったく同じ顔をした黒いほうは楽しげにけらけらと笑っています。
モモは黒いゴゴに一つ質問をしました。
『ええと、先入観で間違えたらいけないので一応聞いておくのですけど……そっちの白いお姉ちゃんがイイモノで、黒いお姉ちゃんがワルモノって理解で合ってるのです? で、黒いほうを倒したら悪の心が消えてハッピーエンド的な?』
『あはは、分かりやすいでしょう? 何事も分かりやすさは大事ですから』
『うふふ、まったくです。おかげさまでよく分かったのですよ、うふふふふ』
『ははは、姉妹だけあって気が合いますねぇ、あははははは、ははははは』
『うふふ、ふふふふ、ふ、よく分かりました…………お前みたいな奴がゴゴお姉ちゃんのわけがないのです! 殺すッ! 絶対ッ、絶対にブッ殺してやるのです!』
『はは、どうぞ出来るものならご自由に』
黒いゴゴの挑発にまんまと乗る形になったのは承知の上。
しかし、それでも憤怒に染まったモモは止まりません。止まれるはずがありません。
かくして、モモと黒いゴゴとの戦闘が始まりました。




