シモン、修業を完了する
体力の限界を迎えて死んだように眠り続けたシモン。
彼がようやく目覚めたのは山に入って六日目の夕方近くのことでした。
「はて、いつの間に寝てしまったのだ? たしか山に入って、ええと……それからどうしたのだったかな」
どうやら倒れるより前の記憶はほとんど残っていない様子。寝起きで頭がぼんやりしているのに加え、過酷な荒行で意識が朦朧としていた時間が長かったせいもあるでしょう。
「うむ、調子は悪くない。いや、すこぶる快調だな? やけに身体が軽い気がする。少し腹が減っているくらいで全然筋肉痛もないが、はて?」
栄養も水分も摂らずにあれだけ動き続けていたのなら、下手をすればあのまま目覚めずに衰弱死していても不思議はありませんでした。
だというのに何故か体調は悪くないようです。
いえ、それどころか滅多にないほどの絶好調。
シモン自身、記憶が定かでないなりに己の状態に疑問を抱くほどの快調ぶりでしたが、不思議なことはまだまだあります。
「おや?」
自身の状態確認を終える頃には多少は頭も働き出したのでしょう。
ようやく周囲に目を向けたシモンが見たのは世にも奇妙な光景でした。
草食の小動物から肉食の魔物まで、多種多様な山の生き物が彼を取り囲んでいるのです。これが肉食の猛獣ばかりであれば群れで自分を狩ろうとしているのだなとシモンも解釈したでしょうが、どうもそういう雰囲気でもなさそうです。
シモンを襲わないだけでなく生き物同士が争うこともありません。
野生とは思えないほどの平穏な空気。
殺気のかけらも見当たりません。
小さなウサギやリスが大柄な肉食獣の頭に乗って寛いでいる光景など、童話の世界にでも入り込んだかのようなメルヘンチックな風情があります。
「ううむ、まだ寝惚けて夢を見ている……というわけでもなさそうだ。これが大自然の神秘というものか。不思議なこともあるものだなぁ」
自分の頬をつねって夢でないことを確認したシモンは、不思議そうにその光景に見入っています。決して大自然の神秘の一言で片付けていい状況ではないはずですが、彼としては他にこれといった理由も思いつきません。なので、これに続く出来事も深く考えずに全部大自然の神秘として受け入れてしまうことにしました。
シモンが目覚めたことに気付いた動物や魔物が、あらかじめ集めておいたと思しき木苺や山葡萄などの果実、栗やキノコやその他諸々。人間が食べても大丈夫そうな物を彼の目の前にどさどさと置いていったのです。
「これは、もしや俺にくれるということで良いのか?」
問いかけるも当然動物たちからの返答はありません。
いよいよメルヘンじみた状況になってきましたが、正直ありがたいところではありました。ちょうど小腹が空いていたところです。まあ、丸六日ほども絶食しておいて「小腹が空く」程度で済んでいるのも十分おかしいのですが。
「かたじけない。ありがたく馳走になろう」
相手が物言わぬ獣とはいえ、受けた恩義には礼儀をもって返すべき。シモンは深々と頭を下げて感謝を述べると、火を通さずとも食べられる果実から食べ始めました。
動物たちを怯えさせるのも悪い気がしたので、キノコなど加熱が必要な物に関しては後で別の場所で焚火を熾して食べればいいでしょう。幸い、生のまま食べられる物だけでも一度で食べきれないほどの量があります。残った分は修業中に擦り切れてボロボロになったシャツを脱いで裾を結び、それを袋代わりにして持ち帰ることにしました。
「ふう、食った食った。生き返ったような心地だ」
食事を終えると改めて山の生き物たちに礼を述べ、そして。
「おお、見ればもうすぐ日が暮れる頃合いか……いや、待て待て。そういえば今って何日だ? 無断欠勤はまずいのだが」
久しぶりの栄養を摂ってやっと本格的に脳みそが働き出したのでしょうか。
実のところ有給休暇に関してはあと一日残っているので明日中に学都まで戻れば問題にはならないのですが、時間感覚を見失うほどの異常な集中による修業と、その後の深い眠りで日付などとっくに見失っています。
「いや、それもまずいが……ライム!」
そして、ようやく山に来た本来の目的を思い出したようです。
シモンは一度瞑目して己が心を見据えると、
「……うむ。最早、我が心に迷いなし」
あれほど揺らいでいた心は凪いだ湖面のように静やかです。
今なら正しい答えを出せるという確信がありました。
あとは彼女に言うべきことを伝えるのみ。
「では俺はもう行くとする。正直、そなたらのことはまだ何が何やらという感じだが、世話になった。達者でな」
シモンは周囲の動物たちに今一度頭を下げて謝意を告げると、そのまま風のような速さで山を駆け下りていきました。
夕日はもう半分以上落ちかけた頃合。
山まで来た時にかかった時間を参考に考えれば、どうにか真夜中までには学都に戻れるだろう、と。この時のシモンはまだそんな風に考えていたのですが――――。
それから一時間も経たぬ頃。
日は八割方落ちたくらいでしょうか。
シモンはすでに学都の目前にまで来ていました。
「はて? やけに身体が軽いとは思ったが妙に早かった気がするな。気のせいか全然疲れんし」
シモンは不思議そうに腕組みをしながら首を傾げています。
着ていたシャツは山で貰った食物を入れる袋代わりにしてしまったので上半身は裸。髪もぼさぼさ、無精髭の伸びた酷い格好ではあるのですが、よく見ればここまで走ってきて汗の一滴もかかず息切れしている様子もありません。
単に身体の調子が良いというだけでは片付けられないほどの好調ぶり。
シモン自身、自分の身に何らかの変化が起きたことを薄々感じ取ってはいるのですが、それが具体的に何かというとまるで分かりません。
山でのメルヘンな出来事と合わせて、不思議なあれこれをじっくり考えてみたくもあるのですが、今はそれよりも何よりも優先すべき事柄がありました。
「さて、ライムはどこだろう? 家にいればいいのだが」




