シモン、修業をする
ちょうどレンリ達がライムを訪ねた頃。
学都から西におよそ150㎞。
峻険な山々が聳える地にシモンの姿がありました。
昨夜職場に寄って諸々の手続きを済ませた後、そのまま休まずに走り続けていたのです。徹夜で走り続けていた上に格好は昨日出かけた時のまま。食料や着替えもなし。腰に剣を差してはいますが、とても山に入るような姿ではありません。
本来ならば何をするにも十分な睡眠と栄養を摂ってからとするのが正しい判断でしょう。けれど、既に修業は始まっているのです。故に今回の目的を果たすまで休息は不要。少なくとも彼はそう思っていました。
「たまには街の喧噪を離れるのも悪くないな。うむ、空気が美味い」
シモンはまるでレジャーキャンプにでも来たように言いますが、この土地は本来そんな風に人がのんびり過ごせるような場所ではありません。
最寄りの人里までは最短距離でも30㎞近く。
竜種を頂点として数多の魔物が独自の生態系を成しており、G国の国内にありながらも正確な地形や植生はほとんど知られていない未開の地。探せば希少な資源などもありそうなのですが、その危険度から国もなかなか開拓の手を付けられない危険地帯です。
「さて、とりあえずは山頂を目指すとするか、っと!」
だからこそ、シモンは修業に最適だと判断したのでしょう。
今も早速、血に飢えた魔物が飛び出してきました。
四支死獅子なる四つ首十六脚のライオンは、その巨体ゆえの存在感を見事に隠して音もなくシモンの背後から飛び掛かってきました。
この気配隠しの巧みさは流石の野生。
魔力だけでも生存可能な迷宮の魔物とは必死さが違うとでも申しましょうか。文字通り命懸けで日々生き抜いてきたからこそ磨かれた見事な技術です。
『グオォ……ゥ!?』
しかし魔物にとっては不運なことに、今回は相手が悪かった。
その牙がシモンに届くよりも前に、突如魔物の身体に自重の何十倍、いえ何百倍もの重力が襲い掛かってきたのです。流石は野生の生命力で即死こそ免れたものの、爪を持ち上げることすらできません。シモンの扱う奥義の一つ、重力結界によるものです。
『グルル、ルルルル……』
「ほう、ライオンの魔物か。ライオン、ライオンか……ううむ、食えるかどうか分からんな。デカいから食いでだけはありそうだが」
襲われそうになったシモンは特に慌てるでもなくそんなことを気にしています。流石に修業中ずっと飲まず食わずとはいかないので、どこかで食料を採るか狩るかする必要はあるのですが。
「そういえば肉食の獣は不味いと聞く。ならば無用の殺生は控えておくか」
『……ッ、キャイン、キャイン!』
「ネコ科のくせに何やら犬のような鳴き声だなぁ」
魔物にとっては幸運なことに、シモンはライオンに食欲を覚えることはなかったようです。彼が重力結界を解除すると、自由を取り戻した魔物は一目散にその場から逃げていきました。
それからしばらく。
時折魔物に襲われては撃退したり、食べられそうな木の実や野草などを採取したりしながらシモンは道なき道を進んでいきました。その気になれば自分の体重を消して山頂までほぼ一直線に跳躍することもできるのですが、それでは修業になりません。
むしろ自分自身の身体に重力魔法で負荷をかけながら、なるべく険しいルートを選ぶようにして進んでいきました。普段の街中でも同じような鍛錬はしているのですが、建物の床や道路を踏み割ってしまう危険を考えるとあまり重量をかけられないのです。
しかし、この山中ではそんな心配は無用。一歩進むごとに足がふくらはぎの半ばまで地面に埋まるほどの重さをかけて、思う存分に自分の肉体を苛め抜くことができます。
途中、滝を見つけたらひとっ風呂浴びるような気軽さで打たれていき、大きなクマがいればあえて剣を抜かずに相撲を取って転がしてやり、わざと目を閉じて音と気配を頼りに進んでみたりもして…………そうして、ようやく山頂に着いた頃にはもう夕日が落ちかけていました。
人の手がまったく入っていない大自然を照らす夕日は思わず息を呑むほどの美しさ。流石に身体が重くなってきたシモンも思わず疲れを忘れてしまったほどです。
「おお、絶景かな。そうだ今度はレンリ達も連れてきてやるか……む」
どれほどの絶景だろうと、道中の過酷さを知れば絶対に拒否されそうです。
まあ、それはそれとして。
シモンは思わず出た自分の言葉から己が迷いの根深さを感じていました。
普段の彼であれば誘う相手として真っ先に思い浮かぶのはライムのはず。
しかし今は無意識に彼女について考えることを避けてしまった。
そんな心の動きがあったこと自体に申し訳なさが湧いてきます。
彼女との問題について真剣に向き合うつもりではいるものの、やはり心のどこかに「逃げ」の気持ちが残っているのでしょう。
「……っと、いかんいかん! それを何とかするために来たのだったな。落ち込んでいるヒマがあったら、その前に出来ることをせねば。ここで手を抜いてはそれこそライムに合わせる顔がない。よし」
山籠もりの修業が本当にその「出来ること」なのかは一般的な感性で考えると疑問の残るところですが、少なくともシモンが真剣に言っているのは確かです。彼は腰に差した剣をすらりと抜くと、己の迷いを断ち切るつもりで一心不乱に素振りを始めました。




