信じる心が世界を救うと信じて
ネムの計画を止めることはできません。
なぜなら、そもそも計画なんて存在しないのだから。
本人ですらどこに向かっているのか分かりません。
しかし、熱意と行動力だけは常に人一倍。
例えるなら、目を瞑ったまま全力疾走しているようなものでしょう。
「なるほどね……いや、メチャクチャ性質悪いねっ!?」
一応、行動方針が『善』で固定されているのがまだしもの救いでしょうか。
それもネムが『悪』と認定した対象をやっつけるとかではありません。基本的には怪我や病気を治すだけですし、加減さえ弁えていれば素晴らしい結果に繋がることでしょう。そのあたりの加減が常に全力一択なのが大問題なのですが。
『まったく、我が妹ながら困ったものです』
「う、うん……でも、あのね……悪い子じゃなさそう、だし」
「ルカ君?」
「信じて、見守ってあげる……のは……ダメ、かな?」
「え、ルカ、それは流石に……ああ、そうだな。そのせいで何か問題が出てきても、俺達や街の皆で協力すればきっと乗り越えられるんじゃないか」
「いやいや、キミ達? この状況でそれは……まあ確かに一理あるけど、いや、ない? あれ、なんだろう。何かがおかしい気が……?」
そして、ネムの全力ぶりは現在進行形でその影響を広げつつありました。
『むむっ、これはちょっと場所を移したほうがいいと思うのです』
「モモ君、いったい何が?」
『話は後でするのです。早くねーちゃんから離れないと、あの子の脅威を認識することすらできなくなっちゃうのですよ』
レンリとルグとルカは、モモに無理矢理引っ張られるようにして中央広場とは逆方向に移動しました。そしてネムから距離が離れるにつれ、先程の自分達の言葉に強い違和感を覚え始めました。
人と人とが信じ合うのは素晴らしいことです。
どんな困難も、隣人と手を取り合って立ち向かえば必ず乗り越えられる。そんな信念を抱くのも悪いことではないでしょう。ですが、しかし。
「あれ……なんで、わたし? あれ?」
「俺、どうしてあんなこと言ったんだ?」
あれほどの異常な熱狂を目の当たりにした直後に、ひとまず干渉せずに成り行きに任せてみようとか、それで何か問題があっても皆で対処すればきっと大丈夫だろう……などと考えてしまうのは明らかにおかしい。
「そういえば私も、何故だかキミ達の言い分を無条件に信じたくなって、そうすれば全てが上手く行くような確信が……いや、そうか。モモ君、これも『復元』の影響ってことなんだね? 『復元』とは言うけど、厳密にはネム君の考えるベストの状態に持っていくって感じなのか」
『はい、そうなのです。目に見える物ではないので分かりにくいんですけど。もうちょっと離れるのが遅かったら危なかったですね。念の為、このまま広場の逆方向に歩きながら話したほうがいいと思うのです』
ネムの『復元』が及ぶのは目に見える怪我や病気だけではありません。
その影響は不可視の心にまで及びます。
悲しみや怒りや不安を取り除き、愉快で明るく優しい気分になれる。
打算なく人を信じ、無限の可能性を信じ、明るい未来を信じる。
たとえどんな脅威が降りかかろうとも、皆で力を合わせれば絶対になんとかなる。大丈夫、だって皆のことを信じているのだから……という思考放棄。
「あの広場の騒ぎはそれが原因か。思い返してみれば、今日の午前に話を聞いた時に私達があっさり納得しちゃったのも……」
『だと思うのです』
広場で騒いでいた人々は、それはそれは明るく楽しい気分になっていたはずです。
誰かが怪我や病を治してもらったら、それを我がことのように喜んで心から祝福する。誰かが幸せそうにしていたら自分まで幸せな気持ちになる。それを見た別の誰かにも更に喜びが伝播していく。
そんな様子に不信感を抱く人がいても大丈夫。
だって不安な気持ちなどすぐに忘れて心の状態が正の方向に『復元』されるのですから。人々が心から互いを信じ、愛し、許し合う、純粋な優しさに満ち満ちた世界。ああ、なんと素晴らしいのでしょう……!
『……みたいな感じのことを考えてると思うのです、多分』
「うわぁ……」
まあ分かりやすく言えば洗脳です。
とはいえ、ネム本人は単一的な思想によって統治されたディストピアを築こうとか、その上で世界を支配しようなどとは欠片も考えていません。個人的な見返りを求めようなどとは考えてもいません。
ただ単純に、人が信頼し合うのが良いことだから。
楽しいのも嬉しいのも、それが良いことだと思っているから。
その場その場で思いついた良さそうなことを全力で実行しているだけであり、その結果何が起こるのかは考えてもいませんし、もし仮に何かが起こっても愛や勇気や信頼や、そういった良いモノがあればきっと乗り越えられると微塵も疑わずにヒトの可能性を信じているのです。
「信頼、信じる、か……あ、思い出した。ネム君の力の源が分かっちゃったかも」
非常にマズいことに、ネムの『復元』は人々からの信仰心を集めるのにうってつけの能力です。ただ治療に用いるだけでも有用ですし、信頼や信用といった信じる心を高い状態に固定できるのが非常にマズい。
彼女は神の卵たる迷宮です。
そして以前の『神の残骸』事件の時のヒナを思い出せば明らかですが、未覚醒の迷宮が神として開花するのに必要な条件は大量の信仰心。まあ同じ事件でのウルは『残骸』に齧りついて神性を獲得していたので、迷宮が覚醒に至るルートは必ずしも一つではないようではありますが。
『ああ、ひーちゃんとウルお姉ちゃんが前にスーパーでハイパーでデラックスな感じになったやつですね。なんか大変だったと聞いたのです』
「そう、それ。このままだと、ネム君が神様になっちゃうかも……」
迷宮の覚醒前後で化身の外見的な変化はありませんが、その能力は大幅に強化されます。ウルやヒナの時を思い返せば、その力は元の何千倍か何万倍か。更に重要なのが、自身の迷宮外での能力制限がなくなってしまうという点です。
ネム本人には信仰を集めてパワーアップしようなどという気はないですし、封印から目覚めたばかりの彼女は自分が神の卵だということすら知らないかもしれません。それでも流石に自分の能力がどんどん強くなっていることには気付いているでしょうし、新しく得た力をこれまでと同様に全力で振るうであろうことは想像に難くありません。
「そうなれば世界から怪我や病気で苦しむ人はいなくなるかもね。はは、案外悪くないかも……って、いやいや。話しながら結構歩いたはずなのに『復元』の効果範囲がここまで広がってるのか!? 皆、走るよ!」
ネムの能力が及ぶ範囲は更に拡大を続けているようです。
歩く速度ではたちまち影響範囲に呑まれてしまいます。
レンリ達は歩くのを止めて走り出しました。
そして、その途中で。
「今日はなんだか気分がいいなぁ。よし今から臨時の安売りセールだ!」
「ほほほ、なんだか身体の調子が良い気がするねぇ。そうだわ、孫にお菓子でも買って行ってあげようかしら」
「おっと、お荷物運びますぜ。なぁに礼なんか要りませんや。へへっ、同じ街の仲間同士助け合わないとね!」
振り返る余裕もありませんが、後方からは人々の幸せそうな笑い声が聞こえてきます。広場の騒ぎを知らない人々にも能力の効果が及んで、強烈な幸福感や安心感、人と助け合おうという優しい気持ちが心の底からジャブジャブと湧き出てきているのでしょう。
まだ当初の数千、数万倍とまではいきませんが、それも時間の問題と思えるほどの急激な成長ペース。恐らく、現在のネムは完全な覚醒に至る直前の段階なのでしょう。現在の異常なパワーアップはその前兆に過ぎません。
完全な覚醒に至れば学都の市内全域はもちろんとして、周辺地域の街や村々、果ては国境をも越えて、誰もが幸せで一切の不安のない信愛に満ちた平和な世界が実現してしまうかもしれません。
「広場に近付くにつれて影響が強まるなら騎士団にも期待はできないか……いや、それでもシモンさん達なら絶対になんとかしてくれる……じゃなくて! ああ、もうっ、ややこしい!」
うっかり気を抜くと無根拠の信頼に運命を委ねたくなってしまいます。ちょっとでも走る速さを落とせば途端に能力の効果範囲が追い付いてしまうようです。
レンリ達はたまたまモモと一緒にいて説明を受けられたからこそ影響を認識できますが、何も知らない騎士団員が広場に近付いたら、たちまち取り込まれてしまうに違いありません。
かといって、いったい誰ならばこの状況を収められるというのでしょう。
ネムと話し合って説得しようにも、彼女に近付けば近付くほどに能力の影響は強くなるようです。それによる身の危険があるわけではありませんが、直接話し合えるほどの距離まで近付いたら、彼女を脅威と認識することすらできなくなってしまいます。
『って、あれ? ねーちゃんとお話できればいいのです?』
「それができれば苦労ないけどさ、なにしろ近付いたらアウトっていうんだから……いや、そうか!」
そう、つまりは能力の影響外から会話ができればいいのです。
正常な思考を保ったまま説得できれば事態を沈静化する目も生まれるはず。
そして、迷宮同士は離れた場所から情報のやり取りをすることが可能。
「モモ君、急いで繋いで! 好きなお菓子なんでも食べ放題にしてあげるから!」
『はい、了解したのです! それじゃあ早速……あ、もしもし、ねーちゃんのお宅ですか? ええと、モモはモモという者ですが今お時間は……あ、はい、どうも恐れ入るのです。よし、繋がったのですよ!』
「よし、色々と突っ込みたいことはあるけど、でかしたモモ君!」
『うふふ、それで何から伝えればいいのです?』
間一髪。ギリギリのところでネムとの通信が繋がりました。
このまま世界が平和になってしまうのか、それとも食い止めることができるのか。世界の行方はレンリの口車にかかっています。




