悲しくて、哀しくて
ほんの少し前。
怪物の最後の一体が爆発した頃のことです。
「なんだろう? 大きな音がしたけど」
『土ぼこりがすごいわね。市壁があるから街の中にはそんなに入ってこないと思うけど……』
レンリとヒナは、学都中央の広場で何をするでもなく状況を見守っていました。ライムを呼びに行った際に第一迷宮に入りましたし、身の安全を考えるならそのまま迷宮内に避難しておいたほうが良かったのかもしれません。ですが、どうしても戦いの様子が気になってしまったのです。
もちろん、ここからでは戦場の細かな様子など分かるはずもありませんが、高くそびえる市壁を優に超えるような巨大生物の姿を、それも同じような巨体が複数体いるのはよく見えました。
騒ぎの当初のような伝聞ではなく、実際に奇怪な生物がいるのを目にした住人の対応は様々。船や陸路で街の外まで避難している者や、あえて気にしていない風を装って普段通りに過ごす者。
一番多いのは今のレンリ達のように、いざとなったら迷宮に逃げ込めるくらいの距離に陣取って街の西方を眺めている者でしょうか。迷宮内にも魔物などの危険もあるにはありますが、誰でも入れる第一迷宮の浅い部分であれば危険はほとんどありません。なにしろ空間的に隔てられているのだから、仮に大地震や洪水のような災害で学都が壊滅したとしても、身の安全だけは確保できる、はずなのですが。
「ウル君とはまだ連絡が取れないのかい?」
『ええ。お姉ちゃん、どうしたんだろう?』
第一迷宮に何らかの異常が発生している現状では過信すべきではないだろう、とレンリは判断していました。彼女達が知らないだけで、この少し前までウルは戦場の真っ只中でグルメを満喫していたのですが、相変わらず連絡が繋がらないことに違いはありません。
何をするにも考えるにも情報が足りない。
かといって、危険を冒して戦場に赴いても足手纏いになるだけ。
「やれやれ、ただ待ってるだけっていうのは意外とキツイものがあるね……ん?」
その時、レンリはふと空を見上げました。
『どうしたの?』
「いや、空の、月の辺りに何か……丸い物が」
月にかかっている丸い影。
そんな形の雲や、ましてや鳥などいるはずもなし。
じゃあ、アレはなんなのだろう?
街中にいた彼女達が戦場にいた面々よりも早く『ソレ』に気付けたのは、舞い上がる土煙で視界が奪われていなかったから。けれど、気付いたところで果たして何ができるというのか?
『何かしら? 少しずつ大きくなって……そ、そんなっ』
「おいおいおい、参ったな……」
凄まじい落下速度で、かつ恐るべき成長速度で巨大化しつつ墜ちてくる怪物。
その狙いは学都の中心にそびえる聖杖。
宇宙から飛来する隕石の如く、けれどただの隕石には決して持ちえない確固たる意志を、遺志を持って、『ソレ』は迫りつつあったのです。
◆◆◆
パニックが起こりました。
「皆、上を見ろ!」
「逃げろ、逃げるんだ!」
「逃げるってどこに!?」
頭上を見上げれば、月を丸ごと覆い隠すほどの異形の影。
そんな状態で、いつまでも脅威の接近に気付かぬはずもありません。
驚愕。
恐怖。
絶望。
それら負の感情が流行り病のように広まるのは、もはや必然だったのでしょう。
街の外まで逃げる時間はありません。
船や馬車を最大限飛ばしても安全圏まで逃げるのは不可能です。
「そうだ、迷宮だ!」
だから、そうした発想になるのも必然。
空間的に隔てられている迷宮ならば、たとえ墜落の衝撃で街が破壊されたとしても、命だけは助かるはず。本来なら、まあそれほど誤った考えとも言えません。
ただし皆が皆、同じように考えたらどうなってしまうのでしょう。
「邪魔だ!」
「おい、押すな」
何百何千という人間が一斉に入口に詰めかければ、それ自体が犠牲者を生みかねない暴力と化してしまいます。身体の弱い子供や老人であれば、人波に巻き込まれただけでも圧死しかねません。
そもそも、迷宮に入ったから安全とは限らないのですが。
「ねえ、ヒナ君。もしもの話なんだけどさ、この聖杖が壊れたりしたら、それと繋がってる迷宮はどうなるのかな?」
『考えたくもないけど……多分、この世界から切り離されて時空の狭間を永遠に漂流することになるか、そうじゃなければ中にいる人とか物ごと全部一緒に消滅するか、かしら。実際にどうなるかは試してみないと分からないけど』
「それは試したくないなぁ」
『我だって嫌よ……』
圧倒的な強度・硬度を誇る神器とはいえ、巨大隕石の墜落に匹敵する衝撃を受ければ無事で済むとは限りません。同じ神器とはいえ、戦いのために創られた聖剣とは性質が大きく異なります。
実際に壊れた場合に何が起こるかは迷宮自身にも分かりませんが、ロクなことにならないのだけは確実。かといって、このまま逃げずにいたら墜落の余波だけで人体など跡形もなくなってしまいます。
広場の外縁の辺りにいたレンリ達が、これから墜落までの間に人波をかき分けて迷宮に辿り着くのは恐らく不可能。とはいえ、他のどこかに逃げる間もありません。
いつの間にやら広場付近の道は大勢の人々が詰めかけてきていました。
押し合い、圧し合い、揉み合い。
これでも総人口からしたらごく一部なのでしょうけれど、この街にこれほどの人間がいたのかと驚くほど。狭い空間に大勢が押しかけてきたせいで、この付近一帯が異常な人口密度になってしまっています。
まだ辛うじて圧死するほどではないにせよ、レンリ達も先程から押されたり引かれたり、何故か近くにいた誰かに頭をよしよしと撫でられたりなどして、自由な身動きがほとんど取れない状況です。
レンリとヒナは互いの手を繋いではぐれないようにするので精一杯。とても前には進めません。堪らずにまだスペースに余裕のある路地まで逃げてきてしまいました。
「はぁ、これはどうしようもないかも……ああ、そういえばヒナ君。怒らないんだね?」
『え?』
「だってほら、見てごらんよ。酷いものだろう。『追い詰められた土壇場でこそ人間の本性が出る』なんて、よく言うけどさ」
迷宮へと繋がる広場の中央近くを見れば、我先にと他人を押しのけ進もうとする人々の姿が。身勝手な怒鳴り声や、喧嘩もそこかしこで。もっと整然と列を作って並べばより多くの人が(それで本当に助かるのかはさておき)迷宮まで辿り着けるだろうに、この有様では互いに邪魔をし合っているも同然です。
こんな光景を目にしたのならヒナが我を忘れて怒らないわけがない、はず、なのですが。
「それが不思議だと思ってね。人間自体に幻滅されてもおかしくないだろうし。まあ、私としてはこんな時にそうなっても困るから助かるんだけどさ」
『そうね。ええ、それはきっと……』
怒りが全くないわけではない。
でも、それ以上に悲しくて。
理不尽に晒された人間達が可哀想で。
綺麗な街並みが壊れてしまうのが悲しくて。
穏やかに暮らしていた人々が、あんな風に必死にならざるを得ないのが哀しくて。
悲しくて、哀しくて、悲しくて、哀しくて。
怒りを塗り潰すほどに悲しい、けれど。
それでもまだ悲しみの底ですらなく。
「うん? 何か長い線? いや、針みたいなのがこっちに……」
あまりに大きすぎて正確な距離すら測れない『ソレ』、恐らくはもう一分そこらで地上に到達すると思われた怪物が、先程までの戦場でウルにしたように地上に向けて長い針を伸ばしてきました。
その針が向かう先にはヒナの小さな身体が。
この時の彼女達には知る由もないけれど、先程ウルにしたように、迷宮に連なる存在からエネルギーを吸収しようというつもりなのかもしれません。レンリにやや遅れてヒナも気が付いたけれど、このタイミングからの回避は不可能。
猛烈な速度で迫る針は……しかし、ヒナに突き刺さることはありませんでした。
ヒナの身体には、傷ひとつありません。
「ヒナ君、危ないっ……あ、やば」
横合いから強く突き飛ばされたヒナが目にしたのは、自分の身代わりとなって胸部を刺し貫かれた――。
『……え?』




