ルグの冬休み①
八手熊。
その名の通りに八本の脚を持つ化け物熊。
魔族の中には馬の胴と人間の上半身を合わせたような姿をした人馬族という種族がいますが、形状のイメージとしてはそれに近いかもしれません。
ただし、こちらは構成要素の全てが熊。
普通の熊のように四足歩行をする為の後脚が四本。
獲物を掴んだり振り回して攻撃するための前脚(前腕)が四本。
通常の熊も、四つ足の生物にしては珍しく二本足で直立したまま歩行や戦闘ができますが、機動力においてはどうしても四つ足の姿勢に劣りますし、人間のように素早いステップを踏みながら戦うようなことは出来ません。
ですが、このヤツデは移動用と攻撃用の脚が分かれている為に、素早い移動と直立状態における高さの有利を同時に活かすことができるのです。全身を覆う毛皮も硬くしなやかで、その下の皮下脂肪や筋肉が衝撃を吸収するために、並大抵の攻撃では倒すことは不可能。
倒す手段があるとすれば、ごく僅かな毛皮に守られていない急所を狙うか、あるいは強靭な守りを突破できるほど強力な武器や魔法を用いるか。いずれにせよ、相当の難事となるのは間違いないでしょう。
◆◆◆
どうやら、悪い予感というのは当たるものらしい。
ルグが村に駆けつけた時点で、状況は既に最悪の一歩手前にまで陥っていました。
見上げるほどの巨体が、今まさに人の住む家屋を打ち壊そうと前脚の一本を振り上げていたのです。家の煙突からは暖炉のものと思しき煙が立ち上っています。先程すれ違った村長も、村人に家に隠れているよう指示したと言っていました。たまたま住人が家を空けているなどという都合の良い幸運はなさそうです。
考える時間はありませんでした。
いいえ、考える間もなく身体が動いたと言うべきでしょうか。
「…………しっ!」
ルグのいる位置からヤツデまでの距離はおよそ100m。
彼は背負っていた弓に矢を番えると、矢筒から矢を引き抜いて即座に一射。
続けて、一射目の結果を見る前にもう次の矢を抜いて二射目を放ちました。
『ッガァ!?』
まだ気付かれていない状態からの不意打ちとなった二矢は、共にヤツデの顔面を捉えました。一射目は右目に、二射目は開いた口内に飛び込んで左側の頬を内側から貫通しています。
これには、さしものヤツデも堪らず前脚の振りを止めて呻き声を上げました。
いくら身体の外側を丈夫な毛皮に覆われていようと、直接体内を狙った攻撃であれば関係ありません。ルグの位置が匂いの届かない風下だったのも幸運でした。
「……ちっ」
しかし、ルグとしてはこの結果は決して芳しいものではありません。
相手が自分に対してほぼ半身、限りなく真横に近い斜め前くらいの位置からの射撃だったので、頭に当てても致命傷を与えることができなかったのです。理想としては先程の二矢のどちらかで、眼窩か口腔を貫いて脳を破壊できれば良かったのですが、角度が悪くて致命傷にはなりませんでした。
片目と、そして口腔内の血の匂いで嗅覚を奪ったとはいえ、手負いの獣というのは非常に厄介です。不意打ちで仕留められなかった以上は、もう同じように矢を放っても決して喰らってはくれないでしょう。ルグが勝てる可能性は大きく目減りしています。
ですが、ここで背を向けて逃げるのは愚策。
「ほら、こっち来い!」
『……グゥルルル!』
まず彼は大声でヤツデを挑発し、家屋から引き離すのが先決と判断しました。
痛みに呻いていた怪物も、弓を構えた少年が自分の片目を奪った敵だと理解したのでしょう。残った左目には爛々と憎悪の灯が燃えています。肉体的なダメージによる憎悪だけではありません。この周辺地域における頂点捕食者としてのプライドを、先程の不意打ちはいたく傷付けてしまったようです。
『ゴガァァッ!』
ヤツデの速度なら100m程度の距離など瞬く間に詰められてしまいます。
いくら魔法で身体能力を強化しようとも逃げることは絶対に不可能。
だから逆に、ルグは向かってくるヤツデの方向、前方に向けて全力疾走を開始しました。既に旅の荷物や、もうこの戦いの役には立たないであろう弓と矢筒は放り捨て、余分な重りとなる物は一切ありません。あるのは左腰に差したままの長剣と、右手にもう一振り。
二者が共に相手に向けて疾走したことで距離は一瞬で詰まり、
「はっ!」
激突の直前にルグはヤツデの死角となる身体の右側へと跳び、その勢いをそのままに剣を振り抜きました。相手の突進力を丸ごと利用したカウンター。筋力や体重に乏しいルグでも、これならば必要なだけの威力を得ることができます。
「ふぅ……借りっぱなしで良かった」
そして何より、強力な魔法の武器でもなければ傷付けられないヤツデの身体を切り裂ける武器を、彼はレンリから借りているのです。もちろんこんな状況を予想していたわけもなく、ずっと前に押し付けられてから借りっぱなしで、普段はほとんど忘れていたような物なのですが。
今の一撃に使用したのは、指輪が変形して長剣になる種類の試作聖剣。
万が一に備えて、村に向けて走りながらあらかじめ変形を完了させており、すぐ使えるようにしておいたのです。あと数分もすればボロボロに劣化して壊れてしまうので、ちょっとした賭けではありましたが、用心していた甲斐はありました。
そして、もう一振りは以前から使っている超集中状態に入るための神経強化の魔剣。
攻撃力に劣るこちらは腰の鞘に差したまま、握りに片手を添えて能力のみを使用する形で用いました。いくら相手が素早くとも、スローモーションの視界の中であればカウンターを取るのも不可能ではありません。
片手を攻撃に使い、同時にもう片手で別の剣に込められた魔法を引き出す。
言わば、ルグ流の二刀流というわけです。
『ゴギャッ!?』
試作聖剣による一閃は、ヤツデの二本ある右後脚の一本を完全に切断し、もう一本も半ば以上まで切り込んでいました。大腿骨は完全に断たれ、肉と皮とで辛うじて繋がっているような状態です。
疾走の勢いが乗っていた状態で急にバランスを崩したために、ヤツデの巨体は地面に投げ出されるように転倒していました。太い動脈が切断された為に大量の血液が噴き出し、ヤツデの足元には大きな血溜りができつつあります。いくら八本も脚があっても、その内の一本が切断され、一本が機能を失うほどの重傷を負ったのなら、もう走ることは愚か歩くことさえも難しいでしょう。
後は、放っておいても出血多量で勝負あり。
治癒魔法でも使えれば別ですが、いくら魔物とはいえ、この化け物熊にはそんな器用な真似は出来ません。数分か、数十分か、いずれにせよ遠からず失血死することになるでしょう。
もう、倒すために矢の一本も、剣の一振りも必要ありません……が。
「……おい、俺はここだ」
『ガ、ガァッ!』
「ああ、行くぞ!」
村を襲った害獣とはいえ、無駄に長く苦しませるのは忍びないと思ったのか。
この地方の最強者、頂点捕食者に対しての敬意ゆえか。
最期の力を振り絞って村人に危害を加えないようにという用心からか。
正確な理由はルグ自身にもはっきり分かっていたわけではありません。
ただ、なんとなく、そうすべきだと思ったのです。
もうヤツデは瀕死の重傷を負っているとはいえ、その剛脚の一撃はルグにとっては十分に致命傷となり得るもの。
良くて重傷、悪ければ即死。
ここでなお戦いを続行する意味は然程ありません。
しかし彼は剣を構えて、今度は途中で死角に跳ぶこともせず、真正面から向かっていきました。対するヤツデも山の王者としての意地ゆえか、正真正銘、最期の力を振り絞って応えます。
巧妙に、少しずつ角度とタイミングをずらして繰り出される四本の前脚を、ルグは再び発動させた超集中状態の中で紙一重で潜り抜け、そして見出した一瞬の隙。
試作聖剣の刃を地面に対して水平に、肋骨と肋骨の隙間を通すようにして放たれた片手突きは、見事にヤツデの心臓を貫いていました。
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《おまけサイレント漫画》
『ねっちゅうしょう』




