腕相撲三本勝負・決着戦ノ弐
あと、ほんの少し、コイン一枚ほどの距離を押し込めばそれでライムの勝利。肉体の防護を犠牲に、自壊を覚悟の上で限界を超えた力を発揮する彼女は、一時的にルカをも上回っていました。その事実に間違いはありません。
しかし、その僅かの距離がこれほど遠く感じることになろうとは、勝負の当事者である二人も、それを見守る人々も想像すらしていませんでした。
「……む」
「ううぅ……っ」
ルカが苦戦しているのは確かです。
まだ辛うじて耐えてはいますが、もはや敗北も間近。
ほんの少しでも力を緩めれば、その瞬間に決着することでしょう。
なのに、動かない。
あとほんのちょっと、数センチまで追い詰められているのに、ルカは崖っぷちギリギリで我慢強く耐えていました。反撃の余力などありません。現状では、ただ敗北を先送りにするだけが精一杯のささやかな抵抗。
実際の時間としては一分か二分か、精々その程度のものでしたが、ルカの体感時間としては永久にも等しい長さに感じられたことでしょう。
ただ、目前の敗北を少しでも遅らせるためだけの忍耐。全身の力を一切緩めずに緊張状態を維持し続けているのです。ライムのような怪我こそありませんが、ずっと全力疾走を続けているにも等しい疲労感が急速に蓄積されていきました……が。
「……っ!?」
その我慢強さは、唐突に報われました。
ルカに反撃の目処がついていたわけではありません。
彼女の我慢強さゆえに訪れたとはいえ、この事態は、どちらかというと幸運によるもの……いえ、こんなアクシデントを幸運などと言うべきではないのでしょうけれど。
ルカが最初に感じた異変は、右手甲の滑り。
その正体は、ライムの爪が割れ、そこから流れ出た血液でした。
勝負に必要のない肉体の防護を絶っているライムの身体からは、爪以外にも多くの出血が見られます。大部分は服に隠れて見えませんが、箇所によっては皮膚が裂け、細い血管が自身の筋力に押し潰されるような形で破裂し始めているのです。目に見える流血にまで至らずとも、内出血を起こしている部分も決して少なくはないでしょう。
いくら本人の意志力が強靭であろうとも、ライムも生物である以上は多量の血液を失えば万全の運動機能を発揮することはできません。勝負が長引けば長引くほど、出血が増えれば増えるほど、力は弱まっていきます。長期戦になればなるほどに、その無茶にも綻びが増えていき、それに比してルカが有利になっていくのが道理というものです。
勝負の天秤はルカの側へと傾きつつありました。
このまま耐えて、耐えて、耐え続ければ、いずれはライムも出血多量で完全に力を失い……否、この腕相撲のルールであればそれよりも早く決着がつくことでしょう。
ただし、実際にはそうはなりませんでした。
ルカはそんな消極的な勝ち方を望みはしませんでした。
未だ、ちょっとでも気を緩めれば一瞬にして負けかねない状況は続いていて、勝ち方を選べるような立場でないことなど承知の上。それでも、目の前の尊敬すべき強敵に胸を張れるような、相手の全力をこちらの全力で真正面から打ち破るような、堂々たる短期決着を望みました。
普段のルカなら自ら進んでリスクを取るような選択は絶対にしなかったはずですが、彼女も真剣勝負の熱に、そして静かに燃え盛るライムの闘志にあてられてしまったのかもしれません。
「本気で。貴女の全力を、私に」
「……は、はいっ!」
この三本勝負が始まってから、勝負の最中に彼女達が会話らしい会話をしたのは、これが最初で最後。ライムは、この三本目の前のインターバルでも手抜きをしないように念を押していましたが、ルカにはその言葉の意味するところが正しく理解できていなかった。いいえ、きっと彼女は理解したくなくて無意識に真意から目を逸らしてしまったのでしょう。
ルカはここまでの勝負でも間違いなく本気でした。
本気で、持てる力の全てを出しているつもりでした。
そこに偽りはありません。
ですが今のルカは、そしてライムも、その力に更なる先があるということを知っています。決して良い記憶ではありませんが。
あの時の、正気を見失って狂気の深淵に陥りかけた暴走状態の膂力。
その恐るべき力は、こんなものではありませんでした。
理性。倫理観。優しさ。
不安。悲哀。恐怖。
普段のルカの怪力は、そういった枷によって幾重にも縛られたものなのでしょう。その危険性をよく理解しているがゆえに、意識的に、無意識的に、厳重に抑えられているのです。
その縛りを外す。
抑えるのではなく、過不足なく使いこなす。
意図的にそんなことが出来るのかはルカ本人にも分かりません。試すどころか、考えることすら避けていたのだから当然です。あるいは、このまま一生眠らせておくべき力なのかもしれません。
しかし、今この時に限っては、その真の意味での全力を受け止めてくれる相手がいます。
この勝負を経て、これまでとは比べ物にならぬほどに増したライムへの信頼、敬意、驚嘆。彼女ならきっと全てを受け切ってくれるという確信がありました。策も何もなく、ただただ互いが純粋にぶつかり合ったからこそ分かることもあるのでしょう。その気付きもルカにとっては初めて得るものでした。
「…………ふっ」
ルカが肺の中に残った息を吐き切る短い声。
直後、勝負台として肘を置いていた盾は瞬時に砕け、爆発音にも似た轟音が響き渡り、長く続いた勝負はとうとう決着を迎えました。




