聖杖『アカデミア』
聖杖『アカデミア』。
この街の名の由来となった神器であり、七つの迷宮に通じる入口であり、また異なる位相に存在する迷宮をこの世界に縫い止める楔でもあり……他にも幾つかの重要な機能がある大変ありがたい杖なのですが、日々それを目にする学都の住人にとって最も分かりやすい恩恵は神秘性も何も関係ない単なる街のシンボル、待ち合わせ等の目印としての機能でしょう。
なにしろ、杖の全長は数百メートル。太さは十メートル以上(杖の内部空間は拡張されているので、外部から観測した場合)という巨大な物体ゆえ、この街どころか近隣の村々からでも見失いようがありません。
たとえ道に迷ったとしても、聖杖の見える方角と距離さえ分かれば簡単に自分の現在位置が割り出せるので、目印としてはこの上なく便利なのです。方向感覚が悪く、地図上の位置を上手くイメージできずとも、とりあえず杖に向かって歩いていけば人通りの多い通りや広場に通じているので安心。小さな子供のいる親などは、もし迷子になったらとりあえずあの杖の近くに行ってじっと待っていなさいと教えているほどです。
まあ要するに、この聖杖はとても目立つ、人目を引く存在であるわけでして。
日の落ちた時間帯であっても眩しさを感じない程度に淡い魔力光を纏っているので、人目に触れていない時間など一日中ありません。
ましてや、多くの人が活動する昼間であればなおさら。
誰か一人でも杖の異常に気付けば、騒ぎになるまで時間はかかりません。
だから、そんな巨大杖をえっちらおっちら登ろうとする罰当たりな者の姿は、それはそれは大変に目立っていました。
◆◆◆
「ふう、たまには身体を動かすのも良いものですな。ほら、昨今ではボルダリングなども流行っているそうですし」
「いや、ボルダリングって壁の出っ張りを登るやつだろうに。これは何か違うと思うのだが」
地上からおよそ百メートルの高さで、聖杖の表面にしがみつくようにしながらコスモスとシモンはいつもと変わらぬ調子で会話をしていました。
何故こうなったのかというと、今朝屋敷を出る前にコスモスに捕まったシモンが観念して街の案内などしていたら、ちょっと彼女から目を離した隙に杖を登り始めていたのです。彼女曰く「そこに杖があるから」などという登山家のような動機で。
シモンとしてはこの隙に無関係を装ってどこかに行ってしまいたい気もありましたが、墜落して怪我でもされたら困ります。
いえ、彼としてもあのコスモスがそんなドジで怪我をするなど全く想像できませんし、仮に高所から落下したとしても地面に人型の穴が開いて、そこから無傷で這い出てくるような展開がありありと予想できますが(常識的な物理法則や世界観など彼女の前ではあまりに無力です)、それはそれとしてこの状況で気を遣わないというのも逆に気疲れしてしまいます。最近は逃げ腰でしたが、なんだかんだで付き合いの良いシモンは、いざという時に助けるために一緒に登っていました。
「しかし、俺が言うのもなんだがよく登れるな?」
杖の表面は金属と石の中間のような感触で、つるつるとよく滑ります。
一応、表面に刻まれた模様の部分に凹凸がないこともないのですが、サイズがサイズだけに人間がそれらを手がかり足がかりにして登るのは難しいと言わざるを得ません。
更に神器の名は伊達ではなく、生半可な物理的衝撃では掠り傷も付きませんし、仮に傷付けられたとしても一瞬で修復されてしまいます。また誰が手入れするわけでもなく風雨に晒されているのですが、汚れなども勝手に浄化され、常に綺麗な状態が保たれています。登山用のピッケル程度では僅かにも打ち込めませんし、表面に固着した泥などの堆積物も皆無。無論、錆が浮くことなどあるはずもなし。
実のところ、聖杖が出現した四年半前から現在に至るまで、杖を解体とまでいかずとも一部を削ったり砕いたりして研究したいと考える人間はそれなりにいました。敬虔な神殿関係者が聞いたら激怒しそうな話ですが、世の中には天罰が下ってもいいから知的好奇心を満たしたいと考える者も一定数いるのです。
世に知られる最も有名な神器はなんと言っても勇者が振るった聖剣ですが、その剣は勇者が役目を終えてこの世界を去った際に失われています。……少なくとも、表向きには失われたということになっています。
聖剣以外にも現存する神器がないわけではありませんが、それらは全て長い歴史を持つ国の宝物殿に納められていたり、厳重な封印を施されていたり。大抵、それらの品々は研究どころか公開もされていないので、とても研究材料になどできません。
しかし、そこに現れたのが超巨大な神器である聖杖。
これほどのサイズの品を納めることが可能な宝物庫など存在しませんし、そもそもこの聖杖は(正確にはそこから通じる迷宮は)、神様のお墨付きで世の全ての人々に開かれているのです。これならば堂々と神の御業に触れることができる、思う存分に調べ尽くせる……かと思いきや、特に誰かが禁じたり注意したりするまでもなく、そういった人々は数を減らしていきました。
前述のような特性、異様な頑丈さであったり再生機能であったりによって、いくら斬り付けても殴り付けても、薬品や爆発物を使おうとも試料の入手ができなかったのです。
時折、腕の立つ剣士が名剣を犠牲に髪の毛ほどの傷を付けられたとしても、それで僅かに削れたはずの破片は確保するより先に空気に溶けるようにして消滅してしまうだけ。これでは全く割に合いません。最近では、どうせ破壊など不可能だからと、新たなチャレンジャーが出たらむしろ周囲の人々が応援する始末です。
破壊云々はさておき、そんな性質を持つ巨大な杖を登るのは容易ではありません。
魔法による飛行術や鳥人系の獣人などのような飛行手段があればともかく、純粋な登攀技術だけで登るのは正直シモンほどの運動能力の持ち主であっても困難です。
今は軽々と登っているように見えますが、シモンは重力操作術を自身の体内、皮膚表面から内側に向けて展開しており、自重をほぼゼロにして負担を軽減していたりします(本当はこの状態で登攀するのではなく跳躍して一気に跳び上がったほうが楽なのですが、それでは要注意人物を見張ることはできません)。コスモスも、仕組みは不明ですが、何らかの裏技を行使しているはずです。
「ふふふ、お目が高い。実はお米粒を指先に付けて、その粘り気を利用してですね」
「いや、それは嘘だろう」
相変わらずコスモスが登れる仕組みはさっぱり分かりませんが、ともかく二人はすいすいと身軽に杖の上まで登っていきました。
当然、そんな目立つ真似をしていれば大勢の目に付くことになります。
眼下の広場や、もっと離れた商業区や職人街などからも。もっと高く登れば、小さすぎてそれがヒトだと認識できない可能性はありますが、街の南端にある駅や市壁の外側からも見ることができるかもしれません。
ただ登るのも退屈なのか、二人はお喋りをしながらも手足を動かします。今日はそれほど風が強いわけではありませんが、地上からこれほどの距離があれば話し声が届くことはないでしょう。巨杖にへばりつくような体勢上、唇を読まれる心配もありません。
「ところで、昨日シモンさまの職場にご挨拶に伺いまして」
「いや、いきなり何言っておるのだ、お前」
「そして、子供の頃の写真など見せながらシモンさまの面白エピソード百連発を披露したところ、これがもうどっかんどっかん大爆笑」
「何をやっておるのだ、お前!?」
「大丈夫です。むしろ部下の皆様からの好感度は大幅に上がったと保証します」
「いったい何を話し……いや、やっぱり何も言うな! 聞きたくない!」
最近、コスモスを避けるように迷宮に引きこもって修行をしていたシモンですが、それは悪手だったのかもしれません。近くにいようがいまいが、彼女に気に入られている以上、こうして弄ばれる運命からは逃れられないようです。
◆◆◆
登り始めてからおよそ三十分後。
楽しいお喋りをしながら(少なくともコスモスにとっては)も休まず手足を動かしていた二人は、ようやく杖の頂上に、正確には頂上の一つに辿り着きました。聖杖の先端部は迷宮の数を表してか七支に別れているのです。
全体が常に淡く光っている杖ですが、先端部から放たれる魔力光は格別に力強く、これだけの至近距離にいると物理的な感触すら覚えるほどの濃密な魔力が感じられます。コスモスはしばし、その魔力の具合を確認してから、ようやく口を開きました。
「ふむ、この杖もだいぶ育ってきたようですね。ここまで四年半ほどですか。これでも、まだようやく芽が出た程度だそうですが」
「目的が目的だけに時間がかかるのは仕方あるまいよ。それで、本当はどうしてこんな場所まで登ってきたのだ?」
そこまで辿り着いて、シモンは登り始めた時と同じ問いを再び投げました。
いえ、シモンにも確信があったわけではありません。
なにせコスモスのやる事なので、深い意味などまったく無く、本当に高い場所に登ってみたくなっただけという可能性もあります。というか、そっちの可能性のほうが大きかったかもしれません。幸か不幸か、今回はそうではありませんでしたが。
「杖といっても色々と種類がありますが、要するに魔法を行使するための補助器具なわけですよ。制御の精密性を向上させたり威力を増幅したり。この聖杖も規模は違えど基本的には似たような物だそうでして」
そこまではシモンも知っています。
この聖杖は自然界の魔力の流れ、魔法使い達から霊脈や龍脈などと呼称される大きな流れからエネルギーを吸い上げて、それを動力源としてとある特殊な魔法を発動するための装置。
意図的な英雄の育成や量産など、迷宮を生成し維持することにも重要な意味はありますが、それはあくまでその魔法を十全な形で発動させるための準備段階、あるいは副産物に過ぎません。
「ただし、普通ならこの聖杖を魔法の杖として使うことはできません。機能と使用者を限定しているのですね。まあ、事情を知らない一般人の方々が既に発動している術に干渉したら困るので、当然の措置とも言えますが」
聖杖には悪用を防止するための安全策が幾重にも張られており、たとえ手で触れて魔法を使ったところで補助器具としての効果は発揮されません。仮に聖杖の機能の全てを増幅器として使用したなら、本来の魔法の数億倍、あるいはそれ以上にも威力や規模を増幅し得るほどの性能を有しているのですが、そんな危険物を無防備に置いておけるはずがありません。安全のための対策は幾重にも施してあり、その一つが使用者を制限するというものです。
かつての勇者が持っていた聖剣も、他者が持つことはできましたが、それだけでは単に切れ味の鋭い刃物。聖剣特有の超常的な能力を発揮させることができるのは本来の持ち主のみでした。
単純ではありますが安全のためには非常に効果的なセキュリティ。それ以外にも保険は何重にも、何十にも及ぶ神経質さ、病的なまでの細心さで仕掛けてあるのですが、最も分かりやすくそれでいて破るのが難しい仕組みの一つが、この使用者制限です。
「で、一時的にではありますが聖杖の使用権限をお預かりしてきておりまして、ちょうど近くを通りかかったのでパパッと済ませておこうかと。ええ、私がこの街に来て色々見ていたのもこれが一因というか……いえ、私自身としては観光を楽しむのがメインで 、どちらかというとそっちの用事がついでなのですが。別に頼みを断る理由もありませんでしたし」
いくら入念なセキュリティに力を入れようと、肝心な役目を世界有数の危険人物に任せるあたりに設計者の隙の多さが窺えます……が、それはさておき。コスモスがこの街に来た訳は、九割九分までは本当に娯楽目的でしたが、一応はそれ以外の真面目な理由もあったのです。
こうして実際に聖杖に触れて確認し、条件を満たしているようであれば計画を先に進めるべく魔法を行使する、という目的。より正確には、これまで秘められていた杖の機能の一部を解放すると言うべきかもしれませんが。
「まあ、この感じなら多分行けるでしょう。では、早速……ハー、ドッコショ!」
やけに気の抜ける掛け声はさておき、一時的に預託されていた使用権限、魂魄に紐付けられた神権によって、コスモスは神器・聖杖『アカデミア』に秘められた機能を起動させました。
◆◆◆◆◆◆
《おまけ》
最近暑いので作中時期は冬だけどそんなの関係ねぇと水着を着せてみたヒロインが恥ずかしさのあまり隠れたヤシの木を握力で粉砕しそうになっている図
なんか今回で三百話目&いつの間にか前作の総話数も追い越していたようですぜウヒョー




