訓練場
「……重い」
およそ二ヶ月ぶり、久しぶりに訓練用の木剣を握ったルグは、以前は感じなかった剣の重さに軽い戸惑いを覚えていました。
医者から運動の許しが出たのが昨日の昼前のこと。すぐにでも走り出したいくらいの気持ちでしたが、昨日の午後は友人達と交流会に参加する予定があったので、本格的に身体を動かしたのは今朝になってからです。
街の南東の外壁沿いにある騎士団の訓練場まで走ってきましたが、やはり体力の衰えは否定できません。手足の筋肉も若干細くなっていますし、短い距離を走っただけで息が切れてしまいました。元通りの体力筋力を取り戻すには、多少なりとも時間がかかってしまうでしょう。
しかし、骨折した手足に痛みは残っておらず、麻痺などの後遺症もありません。医者の話では、折れた箇所はかえって以前より丈夫になっているくらいだとか。どうせなら骨が治る過程で背丈が伸びてくれないものかと密かに願っていましたが、それは流石に欲のかき過ぎというものでしょう。
ともあれ、完治と言っていいまでに回復したルグ少年は、おとなしくしていた期間に溜まったフラストレーションを晴らすかのように、熱心に剣の素振りを始めました。
合同訓練が始まるまでにはまだ時間があります。
ルグ以外にも熱心な者たちが、柔軟体操や型稽古、仲の良い者同士で軽い試合などしていますが、本格的に人が集まってくるのはもうちょっと先でしょう。今の時間に行われているのは、あくまで合同訓練とは別の自主訓練に過ぎません。
そういったワケで、ルグが独り稽古をするためのスペースは十分にありました。他の人々の邪魔にならない場所で木剣を十回二十回と振り続けます。最初はゆっくりと、次第に速度を上げて、なおかつ剣筋が乱れないよう注意深く。
「ふっ……はっ……!」
優れた剣士は、あるいは剣以外の武器術でもそうですが、熟練者になれば得物が使い手の手足の延長と化し、目にも留まらぬ素早さと驚くべき精妙さを両立する域に達します。
いくら素早くとも、狙いが不正確な剣などナマクラ同然。同様に、どれほど正確で綺麗な剣閃だろうとも、速さが伴わねば実戦には耐えないでしょう。
剣は腕で振る道具ですが、十分な速さを得るためには腕の力だけに頼ってはなりません。
脚、腰、背中、肩など全身の筋力を連動させ、体重や剣そのものの重さを乗せる。また、力をこめる一方ではなく脱力による弛緩や骨格構造までもを利用し、更に敵の意識の隙間を突くような洞察力、呼吸や魔力の運用までもが組み合わされ……それらの諸要素が複雑怪奇に絡み合った結果、ようやく完全な一振りに届くのです。その必殺の剣をまぐれではなく自由自在に繰り出せたなら、それこそが頂点。剣の極みに至ったと言えるのでしょう。
無論、現在のルグはその域には遠く及びません。
剣の技量で彼の遥か上を行くシモンに尋ねても、本人曰く道半ば。決して謙遜している風ではなく、鍛えれば鍛えるほど己の未熟を痛感するばかりなのだとか。背丈や筋量、そもそもの剣才。剣術に必要な才能の全てで劣るルグにとっては、より遠く険しい道となることでしょう。
「…………ふっ!」
しかし、そんな事で諦めるくらいなら、そもそも彼は故郷の村から出てこようとすら思っていません。
ルグが思い浮かべるのは、かつて一度だけ目にした剣の極み。
術理の究極。目指すべき地点。
もう十年以上が過ぎても鮮明に覚えている勇者の剣。
たかが素振りとはいえ漫然と振ってはいけません。
注意深く、慎重に。
この一振りに如何なる意味があるのかを常に考えながら。
理想の剣閃をイメージし、己とそれとを重ねるように。
こうして振れば振るほど、上達すればするほどに距離の遠さにうんざりするけれど、しかし近付いていることに間違いはない……はず。
そうして、一時間以上も振り続けていたでしょうか。
「やあ、おはよう、ルー君」
「ん? ああ、おはよう、レン」
「朝から熱心だね、汗びっしょりじゃないか。準備運動にしては張り切りすぎじゃないかい?」
遅れてやってきたレンリが声をかけてきて、ようやく剣を止めました。
深く集中していて周囲の声も景色も意識から除かれていましたが、いつの間にやら訓練場の中には少なからず人が増えています。時間の感覚すらも失せていましたが、もう間もなく合同訓練が始まる時間になっていたようです。
「なんだか……しばらく来ないうちに人が増えたね」
訓練の参加者は、いわば仕事の一環としてトレーニングをする騎士や兵士が六割ほど。三割はルグ達のような冒険者で、残りの一割程度は特に戦闘を生業としているわけではない市井の人々といったところでしょうか。
騎士団に属する面々以外は基本的に自由参加。
職業柄、鍛える必要のある冒険者が自発的に参加するのはともかく、戦う機会のない民間人が訓練に加わるのは奇妙に思えるかもしれませんが、護身術の習得や健康の増進を目的とした参加者が少しずつ増えているのだとか。
「まあ、近くに更衣室が出来たのはありがたい。さっきルカ君も見かけたから、もうすぐ来ると思うよ」
「ああ、あの小屋って更衣室だったのか」
参加人数の増加に伴って、訓練場の端っこに更衣室や水飲み場などの施設が増設されていました。運動に必要に器具は騎士団の備品から貸し出してもらえますし、将来的にどうなるかは不明ですが今のところは参加料金なども取っていません。
ならば、人が増えるのも当然といえば当然。
流石に現役の軍人と同等のトレーニングメニューをそれらの人々がこなすのは難しいですが、練度や体力に合わせてメニューを分け、無理なく鍛えられるようにする工夫などもしているようです。参加人数が増えて、旧来の訓練場のスペースだけではやや手狭になってきた感もありますが、元々街の外壁沿いにある場所なので、街の外にいくらでもある空き地を利用すればパンクすることもないでしょう。というか、既に工兵の訓練も兼ねて市外の開拓を進めていたりします。
「お、お待たせ……おはよう、ルグくん」
「おはよう、ルカ」
そうこうしている内に、動きやすい格好に着替えたルカが二人のところにやってきました。以前はトレーニングに際しても野暮ったいローブ姿にスカートだった彼女ですが、今日はレンリと同じようなパンツルックにパーカーといった動きやすそうな組み合わせ。前髪だけはいつもと同じように目が隠れるように下ろしているものの、後ろ髪は首の後ろで結わえたポニーテールにしています。
ファッションに関しては極度に保守的なルカにしてはかなりの冒険だったはずですが、先日の観劇の際に珍しく着飾ったのが良い刺激になったのかもしれません。
「へえ、そういう格好も似合うじゃないか。ルー君もそう思うだ……ろ?」
「ああ……え?」
「え……な、なに?」
ルグの視線もそんな彼女に釘付けに……は、残念ながらなっていませんでした。
いえ、彼だけでなくレンリもルカ自身も、それ以外の集まった人々も、全員が訓練場に現れた見慣れない銀髪の美女に注目していたのです。
「やあやあ、学都の皆様おはようございます。朝から運動とは健康的で大変結構ですな。それでは張り切って参りましょう」
冬も間近に迫った秋の朝。
その頭のおかしいホムンクルスは、均整の取れたスタイルを見せ付けるかのように、ビキニ姿でサーフボードを小脇に抱えて更衣室から出てきました。




