エピローグ⑥
『エスメラルダ大劇場』の貴賓席は、劇場ホールに並ぶ一般の観客席の真上に位置します。ホール内は多くの観客が視界を確保できるようなだらかな階段状の造りになっており、その中列から後列の上。ホールを一つの巨大な箱として見たならば、箱内の後ろ側の端から中ほどまでの天井に、もう一つの小さな箱がくっついているような構造でしょうか。
「席」とはいうものの、実際のところはほぼ独立した別の部屋であり「貴賓室」と称したほうがより実際の形に近いでしょう。舞台方向にあたる部屋の前面には遮音、遮光の加工がされた大型のガラス板がはめ込まれており、貴賓室内の様子や物音が一般の席に漏れることなく、なおかつ舞台上の光景や台詞などは過不足なく楽しめるような仕組みになっています。
これだけ独立性が高い部屋なのは、客同士のトラブル防止や保安上の理由もありますが、
「お客様、お飲み物は如何ですか?」
「え? あ、あの……えっと、じゃあお水を……」
ゆったりとしたソファに身体を預け、飲み物や軽食を口にしながら優雅に観劇を楽しむ姿は、いかに身分社会とはいえ流石に一般客には見せられません。
舞台の進行を邪魔しないように、一般席では外部からの飲食物の持ち込みは厳禁で、喉が渇いたなら舞台半ばの休憩時間に館内の売店でドリンクを購入するしかありません。休憩時間に手洗いなども済ませようと思ったら、かなり急いで行動しないと間に合わないでしょう。
対して、貴賓席では基本的に客が自ら足を運ぶ必要はありません。自前の使用人を連れてきていなくとも、常時室内に控えている劇場側のスタッフに要望を伝えれば、酒やジュース、酒肴や空腹を満たす軽食、甘い物が欲しければカットフルーツや菓子類などがすぐさま用意されるのです。
しかも、それらは全て無料のサービス……とはいえ、わざわざ劇場まで来ているのですし、上演中に飲み食いばかりに気を取られるような者は少数派ですが。
そもそも、貴賓席を利用できるような客層は当然ながら経済的に裕福な者がほとんどで、いくら無料だからといってもここぞとばかりにガッついたりは(ほとんど)しません。
「なんか……すごいな。違う世界って感じだ」
「う、うん……緊張、しちゃう……」
そういった上流階級向けの空間に慣れていないルグやルカは、広々とした室内にも関わらず、場違い感を覚えてか隅っこの席で小さくなっていました。室内にはなんだか高価そうな絵画や壷などが飾られており、迂闊に動き回って壊してしまうことを恐れているのかもしれません。
飲み物のリクエストを聞かれても水を一杯頼んだだけで、それ以上のサービスを利用する発想自体が出てこないようです。
それ以外の皆は、シモンとライムとゴゴは優雅にお茶を楽しんでリラックスしていますし、レンリとウルとタイムは遠慮の欠片もなく注文したフルーツ盛り合わせをモリモリ食べています。
ルカと同じく庶民感覚が染み付いているはずのリンやレイルは、性格的な差によるものか特に気後れすることなくお茶菓子を摘んでいるようです。時折、室内の調度品を見ているのは職業病と言うべきか、どうやらどれくらいの金銭的価値があるのかを考えている様子です。
ちなみに、先程皆と合流した時シモンは恐ろしく疲れた顔をしていましたが、劇場や芝居に対しての忌避感はいつの間にやら克服していました。
なんでも先日の騒動の翌日以降、舞台修理の監督というかお目付け役としてほぼずっと劇場に詰めていたのだとか。どうして部外者の彼がそんな仕事をしていたのか、事情を知らない他の皆は不思議に思いましたが、それについてはシモンが頑なに口を閉ざしているので詳細は伝わっていません。
ちょっとでも目を離したら明後日の方向に走っていく暴れ馬を御し続けていたというか、危険物の被害が他に向かないように進んで人身御供になったというか……異様な疲れの原因はだいたいそんなところでしょう。もう少し具体的に言うなら、主にツッコミ疲れです。
シモンは、ここ数日劇場にいたことによる幾分の慣れと、そして何よりも責務からの解放感で忌避感が上書きされ、見事に弱点を克服していました。
◆◆◆
(……さっきのは失敗だったな)
開演までの時間に、ルグはそんなことを考えていました。
先程、劇場の前で、普段と違う格好をしたルカを見て「綺麗だ」と思ってしまった。
いえ、別に彼も健全な少年ですから、女性を見て美しいと思うことがないわけではありません。たとえば、今日も自宅から劇場まで来る途中で、全身の造型があまりに整い過ぎていて人工物めいてすらいた銀髪の美女を見かけましたが、綺麗だとは思ってもそれはただ思っただけ。
もっとルグにとって近しい例を挙げるなら、レンリやライムやウルといった異性の友人。彼女達の内面には少なからず問題があるにしろ、容姿に関しては整っているほうだと彼も素直に認めています。
しかし、それは単に綺麗だと思っただけで、それ以上の感情を喚起されるようなものではありません。言うなれば、雄大な自然の風景を見て綺麗だと思ったのと同様の感想に過ぎず、別に恥ずかしいとは感じないでしょう。
ならば、何故今日のルカだけはその例外だったのか?
どうして彼自身にも説明しがたい照れ臭さを感じてしまったのかというと、それはきっと順番が違ったせいでしょう。
①目の前に友人がいる。
②その友人が綺麗な格好をしている。
……という順番ではなく、
①目の前に綺麗な女性がいる。
②よく見たら、それは普段から顔を合わせている友人だった。
今日は偶然にも認識の順序が普段とあべこべで、だからこそ感情が揺らいでしまったのでしょう。その揺らぎは好意というよりは、むしろ対等な友人に対してなんだかいけない事を考えてしまったような罪悪感にも近い感覚でしたが、ルグ本人にも明確な自己分析ができているわけではありません。
結局、この時の彼は不可解な感覚に対して答えを出せず、そして誰かに相談するのもなんとなく気恥ずかしく、モヤモヤした消化不良感を抱えたまま開演までの時を過ごしました。
◆◆◆
(……格好いいなぁ)
開演までの時間に、ルカはそんなことを考えていました。
無論、その感想はすぐ近くのソファに座るルグに対してのものです。
普段とは違う礼服姿は随分と新鮮に感じられました。
何を考えているのかまでは分かりませんが、先程から思索に耽っている風な様子も、なんとなく知的に感じられて格好がいい。活発に運動する姿も捨てがたいけれど、こういう落ち着いた彼もレア感があって良いものである。
まあ、結局のところ、最近のルカはルグがどこで何をしていようとも、ほとんど無条件で肯定的に見えてしまうというだけなのですが。
年齢の割に幼く見える彼のことを、ルカは普段から内心で可愛らしいと思っていましたが、こういう格好も良いなぁ……と、とても口には出せませんが幸せな気持ちを感じながら、開演までの時を過ごしました。
◆◆◆
「ご来場の皆々様、大変お待たせ致しました。いよいよ開演のお時間で御座います。これより始まるは愉快痛快なる大冒険。今ではないいつか、ここではない何処かの物語。さて、長すぎる口上は無粋というもの。さあ、これより舞台の幕を開けましょう」
そして、数十分後。
ホールの照明が落とされ、司会者が短い口上を述べ、とうとう舞台の幕が上がりました。
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【かなり久々な気がするオマケ】
花粉症シーズンは結局ほとんどイラストや漫画を描けなかったので、これからその分の遅れを取り戻していきたいですね。もうすぐ今章終わるけど。




