エピローグ③
そして、後始末の工程③。
本来ならこれだけで良かったはず、なおかつ予定通りに進んでいれば順当に終わっていたはずの、芝居の準備や練習に関しての工程です。しかし、当初の予定はとっくに破綻し、今となっては巨大な壁となって一座の面々に立ちはだかっていました。
「いやいや、無理でしょコレ?」
誰かが言った、言わずとも誰もが内心思ってはいたそんな予想に、「そんなことはない!」と勇ましく反論できれば良かったのですが、既に状況は無理をすればどうにかなるような段階ですらありませんでした。
絶望。
物語などでは使い古された、いっそ陳腐でさえありそうな言葉ですが、その時の彼らの心境を語るには、その二文字が相応しいでしょう。
平和な市井で暮らしていれば、そうそう実感することはありません。
もちろん、全くないわけではないにしろ、自らの芸を頼りに自由気ままに生きる舞台の住人には縁遠い感情でしょう。基本的に根っ子の部分が前向きな自信家でないと、こんな業界に入ってこようとはしないはずです。
なるほど、話に聞く『絶望』とはこういう感じだったのか……と。
その感覚を実感として得た経験は、もしかしたら長い目で見れば芸の深みを増す糧にもなるかもしれませんが、そんな風に無理矢理肯定的に解釈しようとしたところで、避けられるのなら避けたいと思うのが当然です。
高確率で絶望の未来は避けられないとしても、しかし足掻かずに受け入れようというほど諦めのいい者はいませんでした。絶望という言葉は希望の対義語として語られることが多く、それ自体は決して間違ってはいないけれど、希望の反対にあるのは絶望ではなく諦念、諦めの気持ちという見方もあります。
絶望を更に深めた底の底にあるのは、もう全ての苦しみも何もかもを受け入れて足掻くことも止めた諦め。真に希望を失った時、人はもはや苦痛を避けることすらしなくなるのです。
そういう意味では今回の彼らにはまだ絶望できるだけの余力が、希望があるという風に考えることもできました。無理矢理にもほどがある、こじつけのような、詭弁のような希望ですが。
しかし、どれほど薄っぺらくとも、見るからに嘘っぽくとも、そんなでっち上げの希望が時に人々の救いとなるのもまた真理。どんな苦境にあっても希望を見出してしまい、簡単には楽になれない。ヒトの持つそんな性質は、果たして祝福なのか、それとも呪いなのか。
常識の範囲内で無理をしても、到底届きそうにない。
だから、求められたのは無理ではなく無茶。
常識で足りないのなら、非常識に活路を見出す。
そんな無茶苦茶で滅茶苦茶な手段に頼らねば、目的の達成は不可能だったことでしょう。
◆◆◆
「眠らなければ時間を有効に使える……って、そりゃ、短期的にはそうかもしれないけどさぁ。それは所詮一時的なブーストでしかないわけだし、時間が経つにつれて疲れも溜まって効率も落ちていくし、むしろ長期的に見れば愚策でしかないよねぇ?」
ラックがその「無茶」についての説明を受けた時、彼はそんな常識的な反応を返しました。常日頃から夜通し飲み歩き、徹夜で遊び回っているような彼が言ってもいささか説得力に欠けますが、これについては全くの正論です。
ちなみに、事件の関係者ではあっても一座にとっては部外者でしかない彼は、極論、もう公演が大失敗しようが無関係。まだ事情聴取や現場検証に何度か付き合う必要はあるかもしれないけれど、現状だと他の関係者が忙しすぎて、そういった作業は後回しにされています。もしかしたら、このまま有耶無耶に終わってしまうかもしれません。
だから、ラックはその気になれば綺麗さっぱり全部忘れて、日常に戻ってもかまわないという恵まれた立場にはいるのですが……しかし、いくらなんでもそれでは寝覚めが悪い。罪滅ぼしなんて気はないけれど、それでも少しばかりの責任は感じていました。
まあ、いくら責任を果たしたくとも、演劇に関して全くの門外漢である彼に出来ることは、そう多くありません。精々、他の誰でもできるような買出しや掃除を代行するくらいです。
本来、一座の飛空艇に部外者が入るのは禁止されていますし、それ以前に物理的に空の上に来ることはできませんが(機密保持の観点からすると、飛空艇を拠点にするというのは意外と理に適っているのです)、それでもロノに手伝ってもらえば少なくとも行き来の障害はありません。
それに猫の手も借りたい状況では、誰でも出来るような仕事を担当する雑務要員が増えたのは歓迎すべきことでした。拒否できるような余裕はありません。その辺りの細かい規則やらについては、座長のフレイヤが友人として紹介した時点でなし崩し的に、なあなあに受け入れられてしまいました。
「ぎゃっ!? 痛いよぅ……寝たいよぅ……」
「ダメ。続けて」
そして肝心の「無茶」の中身ですが、それは単純にフレイヤ及び他の人員が不眠不休で頑張るというものでした。眠りに落ちそうになる度に、そうでなくとも集中力が切れそうになるたびに、外部からの助っ人として協力しているライムが容赦のない回復魔法をかけ、それに伴う激痛で目を覚まし続けるという寸法です。
もちろん、先程ラックが指摘したように長期的な不眠は本来愚策でしかありません。常人なら徹夜が有効に働くのは一晩か、長くても二晩が限度でしょう。それ以上起き続けても、健康への害は加速度的に増していき、メリットは反比例してどんどん薄くなっていきます。
しかし、もしも不眠のデメリットを無くして、削った睡眠時間分を有効活用し続けられるような方法があったらどうでしょう?
実際、魔族の中には睡眠が必ずしも必須ではない種族も存在します。フレイヤの種族である火精は残念ながら、その眠らなくても問題ない種類ではないのですが、しかし工夫次第で似たような状態に近づけることは可能かもしれません。
そもそも、睡眠とは何か?
ヒトが日中起きて活動していると、多少なりとも心身にダメージを負います。特に運動らしい運動をせずとも、普通に日常生活を送っているだけでも同様です。ダメージというと痛みを伴うような印象ですが、怪我として認識されないような小さな傷や疲労、消耗は生物である以上避けられません。
無論、消耗に対しての回復も常時行われています。
食事によって取り込んだ栄養素が血流に乗って全身の細胞に届けられ、ダメージの修復がされますし、死んだ細胞があれば代わりに機能する新しい細胞が生まれたりもします。健康な身体というのは、この消耗と回復のバランスが取れている、回復量がダメージより優位な状態を指すのです。
しかし、その回復量は常に一定とは限りません。
具体的には、眠っている時は活動による消耗が抑えられ、回復優位の状態になりやすくなるのです。更に詳しく説明するなら、睡眠中の代謝やホルモンバランスの変化にまで言及すべきですが、この場においては割愛します。
不眠状態が続いた時に体内でどのようなトラブルが発生するかというと、要するに起きている間に肉体に受けたダメージが回復しきれずにいるのです。
ただの疲れと侮るなかれ。脳や心肺や消化器系のような重要臓器の過労は、そのまま致命的な症状に繋がりかねません。
本来であれば睡眠中に修復されるような微細な消耗も、回復が追いつかずに積み重なれば命に関わります。重要器官の血管が修復されず、次第に脆く破れやすくなったりすることも十分にあり得るでしょう。
実際、古来から伝わる拷問には、「対象をずっと眠らせない」という種類のものも存在します。眠りに落ちそうになるたびに起こし続けるだけというと、拷問という恐ろしげな言葉に反して暴力的なイメージが薄く、なんだか罰ゲームか何かのように思えるかもしれませんが、拷問を受ける側にしてみればこれほど苛烈な責め苦もなかなかありません。
起きている時間が一週間にもなると、激しい頭痛や嘔吐感、幻覚や幻聴などの症状が出始め、しかも時間の経過と共に重症化していきます。
十日を超える頃には、どれほど屈強なタフガイであっても正常な思考を保つのはまず不可能。人格が凶暴になったり、躁鬱の症状が出たり、また内臓器官のダメージも蓄積が重なり回復不能の障害が出る可能性も少なくありません。更にそれ以上の覚醒状態を継続した場合は、個人差もあるにしても、遠からず命に関わる域にまで達することでしょう。
……しかし。
しかし、それは逆に考えるならば、目が覚めている時にも回復優位の健康な状態を維持できれば、睡眠は生存に必須の条件ではないということにならないでしょうか?
先述のような眠らなくても生きていける種類の魔族などは、現にそういう生態をしているわけで(もっとも、その手の種族でも周囲との時間感覚のズレを補正するためや、あとは単純に眠るのが心地良いと感じて定期的な睡眠を取る者も少なくありませんが)。
今回のフレイヤや、周囲の演者やスタッフはそういう体質ではありませんが、何かしらの方法によって不眠状態を維持しつつ十全なパフォーマンスを発揮し続けられたなら、あるいは不可能なはずのスケジュールを間に合わせることもできるかもしれません。
単に濃いお茶を飲むだとか、物理的に叩いて起こし続けるような手段では無理でしょうが、たとえば強烈にして痛烈な回復魔法を絶えずかけ続ける、とか。
だからこそのライムの起用です。正確には起用というか、彼女なりに幾許かの責任を感じていたらしく、自分から売り込んできたのですが。
彼女の回復魔法は一流と言って過言ではない水準に達しています。
これがデリケートな加減を要する病気の治療であればともかく、体内の目に見えない微細な消耗や細胞の劣化、つまり広義の怪我として捉えられるダメージなら治癒することは出来るでしょう。
彼女の治療を受けた者なら口を揃えて二度と受けたくないと言う、全身の痛覚神経に塩をすり込んだ上で下ろし金でガリガリ削るかのような、それはそれは筆舌に尽くしがたい痛みが副作用として発生しますが(ライム本人にも理由は分かりません。というか、根性が据わり過ぎているせいか本人はあまり重大な問題だと思っておらず、日常的に自身に対して使用しています)……今回はそれも眠気覚ましと考えれば、ぎりぎり受け入れられなくもないかもしれません。それこそ、本当に拷問染みていますが。
更には、ラックが街で購入してきた錬金術による魔法薬、疲労がポンと飛ぶ薬(※合法! ただし厳密には疲労を消すのではなく先送りにするだけ)なども補助的に用い、極限までの効率化を図りました。
もちろん、こんなのは机上の空論を強引に実行しているだけ。
まさに狂気の沙汰。成功の保障のない人体実験みたいなものでしょう。
かつて百年以上も昔には一軍の将であった、つまり一応は魔界の軍人だった(当時からスタンドプレーが目立ち、将といっても指揮らしい指揮はほとんど取ったことはありませんでしたが。そもそも、その軍隊は本格的な実戦を経る前に紆余曲折あり、事実上解体されてしまったようなものでした)という意外な経歴を有するフレイヤですが、別に拷問に耐える訓練などは受けていません。
むしろ、大抵の物理ダメージは炎化で無効になるので、痛みへの耐性は不慣れゆえに普通人より低いくらいでしょう。そして攻撃ではなく回復されているのでは、生態的反応としての炎化も起こらないようです。ライムの回復魔法による激痛では不思議と気絶や発狂もできないので、必然、全ての痛みをそのまま受け入れるしかありませんでした。
一応、一番進行の遅れていたフレイヤ以外の人員は、短いながらも日に二、三時間の睡眠が許されていたのが、まだしもの救いでしょうか。
「お、おぼえた。全部覚えたよ……」
「ん、お疲れ」
不幸中の幸いだったのは、フレイヤが記憶を失っていた間のことを覚えていたことでしょうか。記憶喪失が回復した場合、まるで中身が前後で入れ替わったかのように、今度は記憶を失くしていた間のことを忘れてしまうという症例も世の中にはないわけではないのですが、そういう問題もなく完全に回復でしたのは幸いでした。
それは現状に至るまでの過程の説明が省けたとか、そういった時間の節約についての意味合いでもありますが、一番大きいのは彼女が記憶喪失時における自身の「思考」を覚えていた点です。
フレイヤは頭を打った後にかえって普段よりも思考明晰になったくらいのものでしたが、その頭の使い方とでも言いましょうか。思考形態。頭を使うコツのようなものを覚えており、それは記憶を取り戻した後でも失われなかったのです。
元々、興味がある分野には鋭い才覚を発揮していたわけですし、潜在的な知能、頭の巡りは必ずしも悪いわけではないのでしょう。ただ、以前の彼女の思考は直感や本能に頼りすぎて、しかもそれでも大抵なんとかなってしまうほどの才覚があったものだから、論理的な思考力を磨く機会になかなか恵まれなかったのかもしれません。
それが一度記憶を失い、鋭すぎるくらいの感性が強制的に封じられたことで、論理的・効率的な思考の仕方を覚えた……と、理屈をつけるとしたら恐らくそんなところでしょうか。
まあ、一言でまとめると「頭を打ったら頭が良くなった」ということです。
考えるのを怠けたら、また元に戻ってしまうかもしれませんが。
記憶力も以前に比べると随分増したようですし、元々忘れる前に覚えていた分の台詞はそっくりそのまま思い出しています。結果、本人や周囲の想像よりも大幅に早く台本の内容を覚えることができました。
「ふぅ……これで、休んでいいよね?」
「ダメ」
しかし、それはようやくスタートラインに立ったに過ぎません。
台本の暗記なんていうのは、舞台に立つ上で最低限の条件に過ぎないのです。
台詞を覚えたら、それでもう務まるような甘い世界ではありません。
台詞に合わせた細かな演技。他の役者との連携。それら全てが一定以上の水準に達するまで休む暇はありません。
もはや食事やトイレ休憩を取る余裕もないほどです。
最低限の栄養補給は風味など全く無視した流動食を一気に流し込むだけ。ドロドロの気持ち悪い液体を、息を止め、吐き気を堪えながら一気飲みするのを日に数回。余談ですが、主な材料としてライムから提供された謎の巨大マグロが贅沢にも使用されていました。
トイレ問題に関しては、当初はオムツの着用が提案されました。要するに、「他の皆が見ている中で色々垂れ流しながら練習しろ」というわけです。
しかし、足を引っ張っており決して贅沢を言える立場でないとはいえ、どうやらフレイヤにも乙女のプライドらしき感情はあったようで、泣いて土下座しながら「どうか、それだけは」と許しを乞うていました。それでもなお強要していたら、世を儚んで空から身を投げていたかもしれません。いえ、この高さから身を投げても死ねないのは実証済みなのですが、気分的に。
結果、妥協策として時々お腹の中の消化器系のあたりを炎化して「中身」がチリになるまで焼いてしまうことで排泄行為の必要を強引に無くしていました。炎の展開を皮下だけに抑えたり、体内の水分を余分な量だけ蒸発させるコントロールは流石と言うべきなのでしょう。明らかに才能の使い道を間違えていますし、そんなことをして健康を害さないのか不安になりますが。
せっかく記憶を取り戻したというのに、今度はヒトとしての尊厳を失いかねないほどの殺人的・非人道的なスケジュール。練習なのか拷問なのか分からない……いえ、そんな甘い段階は早い時期に過ぎ去り、途中からは拷問そのものだったとはっきり言い切ってしまえます。
表面上の健康は目論見通り、机上の空論通りに保ってはいましたが、やはり強引な不眠不休にはどこかに無理があったのでしょう。いえ、無理も無茶も最初から覚悟していたことではありますが。
彼女達は次第にそんな現状に疑問を抱くことすらできなくなり、なんのために頑張り続けているのかも見失い、それこそ絶望する余裕すら手放して、ただただ完璧な演技を追及するために身命を捧げる狂気の集団と成り果てていましたが……しかし、その甲斐はありました。
公演当日の早朝。
タイムリミット寸前ではありましたが、全ての準備が間に合いました。
アイドルはトイレに行かないらしいので。
もしかすると「行くからイイ」って考えの方もいるかもしれませんが。




