エピローグ①
――――そして、およそ半月後。
「わ……あ、ありがとう、ございますっ」
「あはは、サインくらいお安い御用だよ。なんならハグでもしようか?」
当初の予定とは違う形でしたが、ルカはフレイヤのサインを、しかも本人が使っていた台本の表紙に書いた物を貰うことができました。ファンなら誰しも垂涎のレアグッズ。ラックの妹として紹介されたことが良かったのでしょう。
ここは、学都近郊の平原に着陸した劇場艇『サラマンドラ号』の甲板。
舞台としてもそのまま利用可能な広いスペースにはたくさんのテーブルや豪華な料理が並べられ、多くのファンが立食パーティー形式で、劇場の関係者との会話を楽しんでいます。
それ以外にも甲板上や平原では臨時の屋台が出ていたり、大道芸を披露している者がいたり、まるでお祭りのような状況です。
また、協賛事業というと大袈裟ですが、場を盛り上げるイベントの一つとしてロノに乗っての遊覧飛行が行われ好評を博しています。御者を務めるラックの後ろに客を乗せ、平原上空をぐるりと一周してくるだけ、一回三分程度の短い飛行ですが、既に順番待ちの列ができるほどの人気ぶりです。
打ち上げを兼ねて急遽企画・開催されたファンとの交流会でしたが、この盛況ぶりを見るに大成功と言ってもいいでしょう。参加費無料、料理もお酒も全部タダという大盤振る舞いなので、当然といえば当然ですが。中には一座に興味はないけれど、タダ飯タダ酒を目当てに来ているちゃっかり者も少なからずいましたが、まあ、そういう部分も含めての成功です。
こうして楽しく打ち上げをしているのだから当然ですが、公演は何事もなかったかのように、当初の予定通りに開催されました。そして予定通りならぬ予定以上、前評判を上回る大盛況の中で最終日の幕を閉じましたとさ。
めでたし、めでたし。
◆◆◆
……なんて、そんなはずがありません。
何事もなかったように見えたのは、あくまで部外者視点での話。
正しくは、権力も財力も体力も、それ以外にも持てるリソースを惜しみなく注ぎ込んだ結果、かろうじて世間に対する隠蔽工作や情報操作に成功した(それも、かなり甘めの採点で)という意味合いでの「何事もなかった」です。
言うまでもなく、実際には何事もありました。
大事がありました。大変な事が。
しかし、何かが起こっていたのは間違いないのに、具体的に何が起こっていたのかというと、今件の関係者であっても簡単には語れません。心情的に語りたくないというよりも、全体像を把握するのがとても困難で、語りたくても語れないというのが実状に近いでしょうか。
各々がどのタイミングで何を考え、結果どのように行動したのかという詳細を関係者全員に面識のあるシモンが聞いて回り、実際に紙に書いて図表の形で整理することで一応のタイムテーブルは把握できましたが、それでも忘却や思い違いもありますし、なかなか完全とはいきません。
むしろ、一連の出来事を整理するならば、「何が起こったのか」ではなく「何が起きていなかったのか」という逆の見方をしたほうが分かりやすいかもしれません。
まず、フレイヤの嫌な予感を元に、ラックの適当な仮説が補強して議論に上った『悪の組織』など、どこにも存在しませんでした。予感はあくまで予感。そこに重きを置きすぎたことが冷静な判断の妨げとなってしまったのでしょう。新聞記事を利用する大掛かりな作戦や、途中で捕まりかけた伯爵の部下の存在が、その説に説得力を持たせてしまったのは皮肉という他ありません。
そして、伯爵たちが危惧していたような『誘拐犯』もいませんでした。
今件におけるラックの働きは、とても珍しいことに、あくまで無償の善意によるものでした。善意の第三者というには深く関わりすぎましたし、彼の逃走能力がなければかなり早い段階で解決していたにしても、それを罪であるとは言えないでしょう。
それらの「起こらなかったこと」を大前提として考えると、幾分かは事態の流れがすっきりします。情報のノイズを地道に取り除いていくと、自然と「起こったこと」もよく見えてくるものです。
しかし、それで浮き彫りになったのは、関係者全員の異様なまでの運の悪さ。間の悪さ。悪人も、真犯人も、黒幕も、そんなのはどこにもいなかったけれど、ただただ純粋にツイていなかった。
しいて言うなら、悪意ならぬ敵意であればウルあたりに無いことも無かったけれど、それも最後には引っ込んでいましたし、そもそも大の大人が寄って集って幼児に全ての責を押し付けるのは心情的によろしくありません。
元凶ならぬ原因としては、そもそもフレイヤが足を滑らして飛空艇から墜落したのが事の起こりではあるけれど、あれ自体は純粋な事故であり、その後の記憶喪失も同様。少々のサボり心はあったにせよ、事故の被害者が責められるというのもスッキリしません。
そもそも、誰かに責任を負わせるにしても、何についての責任を誰に負わせるというのか?
たとえばシモンが伯爵を訪ねた時なども、腹を探ろうと策を弄し、悪い言い方をすれば相手を騙そうとしていたことになりますが、そんなのはお互い様。他の場面でも誰かが誰かの加害者であり、同時に被害者でもあり、利害関係が複雑に絡まりすぎて、とても解きほぐせそうにはありません。
しかも、そんな犯人探し、責任の押し付けに成功したところで、何の責任をどのように取らせればいいというのでしょうか?
考えれば考えるほどに虚無感ばかりが増していき、世の不条理を嘆きたくなるような感覚。
いっそ、細かい矛盾点、問題点には目をつぶって、皆で示し合わせて最初から何も起きなかったことにして全部忘れてしまいたい。そんな捨て鉢なアイデアが名案に思えるほどに、事件の中心近くにいた者たちは疲弊しきっていました。
まあ、しかし、それでも最悪ではなかったのでしょう。
全体で見れば幸不幸のバランスは取れているのかもしれません。
少なくとも、あの日、劇場ホールの舞台で火災が発生した時、それでも被害が軽微で済んだのは奇跡的な幸運としか言えません。最新式の資材・工法が用いられた劇場は、耐火性も防災設備も並々ならぬ水準ではあったけれど、それだけならば数分と経たずに劇場全体が焼け落ちていたはずです。
だから、あのタイミングで落下してきたウルとゴツンと頭をぶつけた衝撃で、フレイヤが記憶を取り戻したのは望外の幸運でした。全くの被害なしとまではいかずとも、自らが変じた炎を二重の意味で手足のように操って、たちまち消火してのけたのです。もっとも、全くの被害ゼロとはいかず、緞帳をはじめとする幕が数枚、製作途中だった書き割りや大道具小道具、トドメとばかりに舞台中央の床が焼け焦げて大穴が開いてしまいましたが、それでも被害は最低限で収まったと言うべきでしょう。
記憶喪失者が頭を強く打って記憶を取り戻すなんていうのは、古典的を通り越して最早ギャグの領域に片足を突っ込んでいるような現象ですが、起こってしまったものは仕方がありません。それを言ったら、そもそも頭をぶつけて記憶を失うのも同レベルの珍現象です。
いえ、よくよく考えるならば、元々記憶を取り戻しかけている様子ではありました。頭をぶつけたのは関係なく、ごく普通に自力で思い出したのと衝突のタイミングが偶然重なっただけという可能性も否定できません。厳密には、頭をぶつけたと言ってもそれはあくまで炎化のトリガーに過ぎないわけで、頭部へのダメージは一切受けていないのですから、衝突と発火が無関係という仮説にもそれなり以上の信憑性が出てきてしまいます……が、結局その点についての真偽は不明のまま。
そもそも、今となっては確かめる方法はありませんし、確かめる意味もありません。
それこそ考えても虚しいだけ。考えるほどに虚しさを増すばかり。
嗚呼、この世は総て無常なり。
めでたくなし、めでたくなし。
……と、話を締めくくった風ではありますが、たしかに記憶を取り戻したことは一つの区切りではありますが、その区切りはエンドマークではありません。
舞台の裏での騒動に一応の決着はつきましたが、表の舞台を予定通りに始めるまでは、そして予定通りに終わらせるまで終わりではありません。むしろ、ある意味ではそこから先こそが、彼ら彼女らにとっての本番だったとすら言えるでしょう。苦労の本番だったと。




