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もうちょっと&もうちょっと


 その感覚は、たとえるならば喉の奥に魚の小骨が刺さったり、クシャミが出そうで出なかったり、背中の手が届かない位置がかゆくなったり……そんなモヤモヤした感じを極限まで集めて煮詰めたような違和感。異物感でしょうか。

 もっとも、記憶を失っている彼女にその手の例え話がすんなり通じるかというと怪しいものですし、そもそも彼女自身がそのものズバリの感覚を味わっているのだから、他の何かにたとえる意味はありませんが。



「なんというか……こう、もうちょっとの所まで出かかってる気がするんだけど」



 一度は思い出しかけた記憶が、あと一歩のところで引っ込んでしまった。

 とはいえ、完全に消えて無くなってしまったのでもない。

 何かのキッカケがあれば今すぐにでも届きそうな感じはある。

 もうちょっと。

 しかし、その「ちょっと」というのがまた曲者で、何をどうしたらいいのかが全く分かりません。下手をすると、再び忘れる方向に天秤が傾いてしまう恐れも十分あります。


 記憶喪失の身でなくとも、何かの言葉を度忘れしてしまうこと自体はままあります。確実に知っているはずなのに該当する単語だけが思い出せなかったり、知り合いの名前が咄嗟に出てこなかったり。そういった経験は誰にでもあるでしょう。

 現在フレイヤが抱いているのは、それと似たような、かつ何百倍にも強めたようなモヤモヤ感であり不快感。そう、状況としては治りかけているとしても、それは決して心地良いものではありません。



「半端に思い出せないのが……なんか、気持ち悪い」



 これは、つい先程までは無かった感覚です。

 断片的な情報、正しく繋げ合わせれば元通りの形に組み上がるであろうパズルのピースが頭の中にあって、しかし、今はバラバラで意味を成さない。これを記憶回復の過程と見れば、決して悪い状態ではないのでしょうが、同時にそれは本人の負担にもなっているようです。

 恐らくフレイヤの脳は全速力で回転して、記憶を正しく組み上げようとしているのでしょうが、外見は若く見えても数百年は生きてきたのです。本来の彼女が内包する記憶は普通の人間を遥かに超える膨大な情報量になるでしょうし、簡単に処理できるはずがありません。脳器官への負荷は扱う情報量に比例して増し、それが心身の不調という形で表れる可能性は決して少なくないでしょう。



「えっと、具合悪そうだけど大丈夫かい?」


「あんまり大丈夫じゃないかも……」



 だから、そんな彼女にとってはラックの些細な気遣いは正直ありがたいものでした。

 近年では逆に世話をされっぱなしの彼ですが、それでも一応は四人兄弟の一番上だけあって、弟妹の世話は慣れたもの。素人の域は出ませんが、傷病人の介抱について多少の経験はありました。

 とはいえ、風邪でも引いたというならともかく、記憶が戻りかけての体調不良となるとどうすればいいのかさっぱり分かりません。



「どこかで水でも貰ってこようか?」


「ううん、いらない。それより、そのまま……うぷっ」



 とりあえずは気分悪そうにしているフレイヤの背中をさすったり、舞台の床に座らせて楽な姿勢を取らせたり、まるで酔っ払いを介抱するような対処しかできませんでしたが、それでも幾分かマシにはなったようです。

 今は何処からともなく現れたウルの相手をしていますが、治癒の術が使えるライムも近くにいますし、どうやら今すぐ命に関わるような危険はなさそうに思えました。あくまでラックの素人判断なので絶対ではありませんが、本当に危険な状態なら既にライムが治療に当たっているはずですし、そう大きく外した診断ではないでしょう。


 ただ、そのような状況ゆえ周囲への警戒が疎かになってしまった、油断したつもりはなくとも大きな隙が生じてしまったのもまた確か。それは避けようもない、仕方のないことではあったのでしょうけれど。







 ◆◆◆







「ぐぬ……こっちか?」


 ラック達やルカ達から更に遅れることしばし。

 領主館から大急ぎで、建物の上をほとんど直線的に走ってきたシモンは、苦しげな呻き声を上げながら劇場内を進んでいました。

 その歩行速度は、つい数分前までの疾走が嘘のようなナメクジが這うような遅さ。

 もちろん、走ってきたから疲れたというワケではありません。彼はその程度のスプリントで体力切れになるようなヤワな鍛え方はしていません。



「ぐぬぬ、慣らしておいて良かったが……」



 シモンが苦しそうにしているのは、単に彼の演劇恐怖症によるものです。

 一連の事件を解決すべく颯爽と駆けつけたはいいものの、土壇場で一気に弱点を克服するには至りませんでした。彼の胃にはキリキリと引き絞られるような痛みが走り、顔色もはっきり青褪めています。

 しかし、それでも最悪とまでは呼べません。

 ここしばらく街中での芝居見物を繰り返して、多少なりとも耐性を付けていなかったら、とっくに足を止めていたことでしょう。ですが、ゆっくりとですが進むことはできています。


 シモンの感覚だと随分前のように感じますが、ライムと別行動を取る前にラック達の行き先が劇場だと聞いていたのは僥倖でした。その段階で合流する算段があったわけではなく、あくまでも偶然でしたが、そのおかげで領主館を飛び出してから迷わず劇場に向かうことができました。その情報がなければ、当て所なく街中を探し回る羽目になっていたでしょう。

 気配探知の精度においてはライムに幾分劣る彼でも、同じ劇場内にいれば知人の気配を辿る程度は可能です。ライムは日常的に気配を抑えていますが、ラックやフレイヤの気配はすぐに感じ取れました。



「しかし、どういうことだ……?」



 理由は不明ですがルカやレンリといった知り合いの気配も館内にあり、しかもラック達とは別行動を取っているらしいことも把握しています。その理由までは分かりませんが、それに関しては想像しろというほうが無理でしょう。

 少なくとも敵ではないというだけで、今は十分。

 いえ、そもそも最初から、どこにも敵などいなかった。

 今回の事件には……否、それは事件と呼ぶのさえ適切ではないのでしょう。


 領主館に集まった面々が、各々有する情報を開示して摺り合わせていくと、驚くほど呆気なく数々の矛盾点が浮き彫りになりました。今はまだ全部の謎が明らかになったとは言えないにしても、おおよその部分に関しては解明されたと言えますし、残り僅かなブラックボックスについても、ある程度の予想が出来るくらいの材料は揃いました。

 考え直してみると、最初から隣人を信頼して情報を共有していれば、もっと早い段階で簡単に解決できていたに違いありません。まあ、それも今に至ったから言えることですが。


 ともかく、これ以上この騒動を続けても誰のメリットにも繋がりません。

 恐らくは、未だに警戒状態を続けているであろうラック達にしても、シモンから知る限りの情報を話せば捕獲ならぬ保護を受けてはくれるでしょう。だからこそ、無用の敵愾心を煽りかねない伯爵の部下ではなく、シモンが直々に足を運んでいるのです。単に、彼の速さに付いて来れる者がいなかったという理由もありますが。

 フレイヤの記憶に関しては、公演に間に合うかは危うい部分もありますが、一旦保護してしまえば専門医の治療を受けさせることもできます。事態の解決はともかく、少なくとも終結させることは出来る、はず。



「ここ、か。やっと着いた……」



 真新しい劇場内をのろのろ進み、そしてとうとうシモンはホールに隣接する大扉まで辿り着きました。同様の扉はいくつもあり、彼がいるのは最前列の席に一番近い出入り口です。

 道中に掲示されていた案内図から館内の構造は大雑把にですが把握しており、気配が極端に読みづらいライムは不明ですが、ラックとフレイヤと、そして何故かウルが扉の向こう、ホールの舞台上にいるのは分かっています。

 どうして一人増えているのか、詳しい事情は分かりませんが、それは推理するまでもなく本人達に聞けば済む話。急いではいるけれど、それはもはや一分一秒を争うような緊迫した状況ではなく、シモンとしてはもうこれでほぼほぼ解決したような心持ちになっていました。

 体調不良で平静を失っていたからかもしれませんし、友人知人に対する彼の甘さの表れでもありますが……それは、つまり彼がここへ来て気を緩めてしまった。勝手にゴールに辿り着いた気になって、油断が生じてしまったということでもありました。

 

 せめて、もうちょっと。あと、ほんの数秒だけでも気を抜くのを遅らせていたら、この後の展開もまた違ったものになったのかもしれません。



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