領主館にて
ライム達と別れたシモンは、当初の目的地であった領主館の門前に到着しました。
少し寄り道をして数分ほど時間をロスしてしまいましたが、抱えている巨大マグロの頭はまだ充分に新鮮さを保っています。生食でも恐らくは問題ないでしょうし、生に抵抗があっても火を通せば食中毒の心配はないでしょう。
ですが、今心配すべき問題は別にあります。
最初はただ土産物を渡しにいくだけのつもりだったのですが、先程助けたラック達から話を聞いて、伯爵が何者かに騙されて悪事に加担させられているのでは……という疑いが生まれてしまいました。シモンとしても信じがたい推論ではあるのですが、先刻得た情報だけでは完全に否定することもできません。
どれほど小さな可能性であっても、疑念の内容が内容だけに、王家の一員たるシモンには事の真偽を確かめる義務があるのです。
確認して、何もなければそれで良し。
それなら、単に早とちりをしたというだけの笑い話で済ませられます。
「さて、どうしたものか?」
しかし、一言で確認するとはいっても簡単ではありません。
真正面から馬鹿正直に尋ねたら、いくら伯爵が正直な人柄だとて不審に思うが必定。いくら身分差があるとはいえ、伯爵クラスの大貴族の機嫌を損ねたり敵に回すような物言いは避けるに越したことはありません。
加えて、もし彼を裏から操っているような人物がいるとするなら、現段階で警戒心を抱かせるべきではないでしょう。身柄を確保するより前に警戒されたら、逃亡の危険も出てきます。
総合的に判断すると、一見関係なさそうな無難な話題で伯爵や仮想敵の警戒を緩めさせ、話を引き伸ばしながら、さりげなく自然な形で核心についての探りを入れるのがベスト。シモンはそう判断しました。
「ただいま、旦那様をお呼びいたします。恐れ入りますが、こちらで少々お待ち下さいませ」
「ああ、頼む」
午前中に館を訪れたタイムの話だと、伯爵に急な用事が入ったと使用人に告げられて本人には会えず、穏当に追い返されてしまったという事でしたが、流石に王弟であるシモンに同じようにすることは避けようと考えたようです。執事長の老爺は普段と同じように複数ある応接室の一つに案内すると、すぐ主人に来訪の旨を伝えると言って退室していきました。
余談ですが、土産のマグロは重すぎて他の人間では持てないので(頭部だけでもトン単位に達するかもしれません。奥義で重力を反転させられるシモンなら床を凹ませずに運べますが)、応接室に来るより前にシモンが直接領主館の厨房まで運んで料理人に預けてあります。
珍しい海の魚を相手に腕を振るう機会を与えられ、料理人達は無邪気に喜んでいました。彼らなら、きっと美味しく料理してくれることでしょう。
◆◆◆
「旦那様、お客様が――」
「ああ、来るのが窓から見えたから分かっているのである」
執事長が伝えに行くよりも前に、エスメラルダ伯爵は既にシモンの来訪に気付いていました。
今いる部屋が前庭に面している為に、門を抜けて本館に来るまでの様子を目にしていたのでしょう。なにしろ冗談のように大きい魚の頭を担いでいたので、それはそれは目立っていたはずです。
「あの、伯爵閣下。ええと……あの大きい魚を担いでいた青年が、そのお客様なのですか? 身なりからすると、魚屋には見えませんけれど」
「うむ。いや、魚の頭を持っていた理由は我輩にもまるで分からぬが」
物腰こそ丁寧ですが、伯爵の向かいの席に座っていたオルテシア女史の言葉には、言外に「追い返せ」という念が込められていました。実際、今日これまでに何度かあった来客は全て断らせています。
一刻も早く解決したい彼女の立場からすれば、伯爵が来客の応対に時間を割かれるのは大変困るのです。昨夜からの徹夜が午後になっても続いているのですから、多少不機嫌になるのも止む無しでしょう。
彼女の前にある長テーブルには市内全域の地図が広げられ、捜索班からの定時連絡によって伝えられる情報が逐一書き加えられていました。
調べた地区や時間、新聞を通じて動かしている民間人が何か有益な情報を得ていないか等々。各班との連絡を密にすることで、可能な限りリアルタイムに近い捜査状況を共有できるようにしているのですが、苦労の甲斐もなくこれまで成果は挙がっていません。
港や駅や市壁門なども見張らせてはいますが、人間のやる事に絶対はありません。万全を尽くしたつもりであっても、実は既に何らかの手段を用いて市外へ出てしまっているのではという不安も現実味を帯び始めています。
しかし、伯爵としてもシモン相手となれば、他の客にしたように追い返すわけにはいきません。本来ならば、他の用事を全てキャンセルしてでも歓待すべきような人物なのです。当のシモンが大袈裟な出迎えを好まないので、普段はそういった対応を控えてはいますが。
「あのお魚は、殿下から旦那様へのお土産だそうでして。なんでも、珍しい海の魚が手に入ったからお裾分けにいらしたとか。扱いは料理長に任せてあります」
「おお、それは今晩の食事が楽しみなのである」
老執事長は、これまで主人と客人との会話になるべく口を挟まないようにしていましたが、伯爵が魚の意味を気にしている様子だったので、なるべく簡潔に伝えました。
それを聞いて、伯爵も少しは安心したようです。
単に土産を持ってきたというだけなら、不本意に話が長引くこともないでしょう。
これまでのシモンとの付き合いの経験からするに、彼は無用の長居を避ける傾向があるので、なるべく速やかに土産の礼を伝えて、それで穏当に帰ってもらうのが一番だろうと伯爵は判断しました。
「あのぅ、閣下。殿下というのは一体なんのことでしょう?」
「うむ。あの方は、紛れもなくこの国の王弟殿下なのである」
「お、王弟?」
しかし、安心した伯爵とは裏腹に、オルテシア女史は酷く驚いていました。
なにしろ「殿下」などという尊称は、そう滅多に聞くものではありません。
ましてや、それほどの大物が土産と称して巨大なマグロの頭部を担いで、供も連れずに一人で来ているというのですから、これで驚くなというほうが無茶でしょう。
しかし、それで伯爵が来客対応を断れない理由も分かりました。
王族が相手となれば、あくまで伯爵に「お願い」をして協力を得ているだけの女史には、どうすることもできません。少しでも早く用件を済ませて帰ってくれることを祈るばかりです。
「なるべく早めに戻ってくるのである」
伯爵はそれだけ言うと、大急ぎでシモンの待つ応接室へと向かいました。




