絶体絶命
ICBMを担いだシモン達が迷宮から出てくる少し前。
街中の全ての視線を掻い潜るように逃げ隠れしていたラックとフレイヤは、ここまでで一番の窮地に立たされていました。
いえ、悪の組織から追われているというのは妄想染みた勘違いなので、窮地というのはあくまで二人の主観としてですが。
「こっちの道もダメか。はっはー、これは面白くなってきたねぇ」
「それ全然面白くないよ……」
ここまで、ラックの逃げっぷりはそれは見事なものでした。
新聞記事の影響によって、道行く人全員が潜在的な敵になり得る状況。
行動の動機となるのが純粋な好意だとしても、誰か一人にでもフレイヤの存在に勘付かれてしまったら、あとは芋蔓式に際限なく彼女のファンが集まってしまうでしょう。そうなってしまえば、彼女を追う「敵」にもたちまち発見されてしまいます。
そんな厳しい条件下でありながら、ラックは民家の敷地内や屋根の上、商店の倉庫などの人目に付きづらい場所を、通行人の視線が途切れる僅かな隙間を縫うようにして街中を気配を消しつつ進んでいました。
フレイヤという彼にとっては行動の枷となる相手を連れていながら、それだけの真似が出来るのは賞賛に値します。もっとも、彼女と出会っていなければ、最初から逃げる必要すらないのですが。
コソコソと逃げ隠れする才能、そんな分野の能力を才能と言ってもいいのなら、彼は間違いなく天才的な素養の持ち主だといえます。隠行術に関してなら、一流の武芸者にも匹敵するか、あるいは上回るかもしれません。
そのまま逃げに徹していたならば今日一日を逃げ切って、夜闇に紛れることもできたでしょう。しかし、ラックとフレイヤの目的は単に逃げ続けることだけではありません。
失った記憶を取り戻すこと。そして、必要ならば一座の裏に隠された陰謀を暴き、悪の一味と目される集団や、共犯者と思われる伯爵が二人に手出しできないよう対抗する手段を手に入れること。
記憶の件以外ははっきり言って徒労以外の何物でもないのだけれど、客観的な立場からそれを指摘できる者は誰もいません。
フレイヤの感じた嫌な予感が状況判断の根幹にあるために、用心の為に最悪の事態を想定しようとして、新聞記事やら何やらの状況証拠も悪い想像を補強するかのように出てきてしまった……全てが噛み合っているような錯覚を覚えながらも実は全くこれっぽっちも噛み合っていない、ある意味奇跡的なバランスで現在の状況は成立していました。
記憶を取り戻すための方策としては、今朝の時点では医者を訪ねるという現実的な案がかなり優先度の高い選択肢としてあったのですが、他の患者や不特定多数の人間がいるであろう病院に向かうことは自ら危険に飛び込むことにもなりかねません。
街によっては荒事で負った怪我を秘密裏に治療してくれる闇医者のような存在もいるのですが、ラックの知る限りでは学都にその類の業者はいません。単に彼が知らないというよりも、恐らくは存在しないと思われます。
この街の騎士団が潔癖なまでに裏稼業の人間を取り締まっているので、そういった業界人を相手に稼ぐ闇医者などという商売は、そもそも成り立たないのでしょう。
そういった理由から、医療的な方向から記憶を取り戻す手段を探すのは、少なくとも現在の状況が改善されるまでは現実的ではないと判断されています。
だが、それ以外に記憶を取り戻す方法などあるのか?
ラックも、そして勿論フレイヤにも明確な心当たりなどはありませんでしたが、記憶を失う前の彼女が知っていたであろう人や場所を見れば、何か思い出すのではないかという推測はできます。知っているであろう人というのは、現在だと彼女を追う「敵」とイコールで結ばれる可能性が高いので目指すべきは場所。
第一候補となるのは今も上空に見える飛空艇ですが、敵陣に乗り込むのはいくらなんでもリスクが高すぎます。いざとなれば屋敷に戻ってロノの力を借りれば実行できなくもありませんが、そうなるとほぼ確実に家族を巻き込んでしまうので、ラックとしても出来ればやりたくはありません。
しかし、そうなると目的地の候補が一気に減ってしまいます。
数日前に学都に来たばかり、しかもずっと飛空艇にいたであろうフレイヤに、覚えのある場所などあるのだろうか。仮にあったとして、その場所を訪れて記憶を取り戻すことができる保障もありません。ですが、それでも――――、
「そうだねぇ、劇場とか?」
「劇場?」
「うん、フレイヤちゃんさ、今度あそこでお仕事をする予定だったらしいじゃない。下見だのリハーサルだので行ってるかもしれないよ」
「そうだね。それに、他のアテもないし」
か細い可能性に縋るように、二人は『エスメラルダ大劇場』を目指すことにしたのです。
◆◆◆
一応の目的地は決めたけれど、しかし姿を隠しながら進むとなると簡単な道程ではありません。人目が完全に途切れる瞬間を狙って物陰から物陰へ。
なるべく人通りの少ない狭い道を選んだとしても、タイミング次第では何分も何十分も同じ場所から動けないということもあり得ますし、通行人が気紛れで立ち話なんて始めてしまったら最悪です。
逆に、隠れているのが見つかりそうになったら、不本意なタイミングで飛び出さざるを得ないということもあります。追っ手に見つかるより先に不法侵入で逮捕なんてことになったら目も当てられません。
用心に用心を、遠回りに遠回りを重ねるように移動していたら、いつの間にやら街の中央近くまで来てしまっていました。ラック達は商店の裏口に置いてあったゴミ箱に潜みながら(幸い、生ゴミ用ではなく紙屑やら木屑やらが少し残っていただけでした)周囲の様子を窺ってみましたが、しばらくは前にも後ろにも進めそうにありません。ついでに言えば、昼食を摂る余裕もなかった為、空腹と疲労で思考力もだいぶ鈍ってきています。
「お腹空いたね……」
「そうだねぇ……」
いっそ、視界が悪くなる日暮れまでこのままゴミ箱の中に隠れていようか。
そんな消極案が次第に現実味を帯びてきた頃、
「いたか?」
「いや、こっちはいない」
「よし、次はこの道も調べるぞ」
二人が隠れているゴミ箱の近くから、そんな話し声が聞こえてきました。
彼らがいるのは表通りからは見えない裏通り。非常にゴチャゴチャしており人が隠れられそうなゴミ箱や木箱、物陰には事欠かない、かくれんぼには絶好の場所ですが、なんと話し声の主達はそういった人が隠れられそうな場所を片っ端から調べ始めたではありませんか。
ラックがゴミ箱の隙間から様子を見ると、その男達は全員武装しており、明らかに荒事慣れしていそうな雰囲気が伝わってきます。新聞記事に影響されただけのファンには到底見えません。
「こりゃ、ちょっとヤバそうだねぇ」
彼らの正体は、伯爵から事件の内容を伝えられ秘密裏に捜査をしている精鋭達。この場にいる以外にも幾つもの部隊を編成され、街のあちこちで数の力を活かした捜索をしているのです。
ラックが一見で「ヤバそう」と評したのも当然。全員が帯剣しており、もし荒事になったらラックは彼らのうちの一人にすら到底敵わないでしょう。
「ど、どうするの?」
本来の彼女からしたらあり得ない振る舞いですが、フレイヤは追い詰められたことを自覚して怯えているようです。今はまだ十数メートルほどの距離がありますが、裏通りの端から虱潰しに人が隠れられそうな場所を検めています。
このままだと何分もしないうちに二人が隠れているゴミ箱を調べられてしまうでしょう。そうなってしまったら、最早逃走すら不可能。そうならない為には、少しでも距離が開いているうちに自分達から出て行く他ありません。
「うーん、ちょっと駆けっこでもするかねぇ。空きっ腹に響きそうだけど。僕が合図したら振り返らずに走り出すんだよ」
「う、うん。わかっ」
「じゃ、ヨーイ、ドン!」
「え? あ、早い! 合図早くない!?」
フレイヤの心の準備が整うより前に、ラックは勢いよくゴミ箱から飛び出しました。そして、フレイヤの手を引いて一目散に広場の方向へと駆け出します。人目につくのは好ましくありませんが、今はそんな事を言っていられる状況ではありません。
「おい、待て! そこの男!」
「あのローブの少女が例の?」
「報告にあった通りの紫髪に長髪。だとすると、奴が犯人か?」
「なんと、本当に誘拐だったのか!」
背後の男達から気になる言葉が聞こえてきましたが、振り返って問い質すワケにもいきません。フレイヤの手を引いて走るラックは一旦広場に出てから瞬間的に周囲を見渡し、即座に元来たのとは別の路地へ駆け込みました。
先程よりも細い道で、両手を広げれば簡単に両側の壁に手が付いてしまいそうなほどしかありません。これならば、敵も数を活かして周囲を囲んだりはできなくなります。それでも、全く余裕がないことに違いはありませんが。
「待て!」
「あっ」
記憶を失ったことで、速く走るための身体の使い方や勘なども失われているのでしょう。先頭を走る追跡者の手がフレイヤのローブにかかりました。袖の部分を掴まれたフレイヤはバランスを崩して転びかけ、彼女の手を引いて走っていたラックも必然足を止めざるを得なくなってしまいました。
まさに絶体絶命の大ピンチ(二人の主観的には)。
「ラ、ラックだけでも逃げて!」
「くっ、いや僕は――――」
しかし、案ずるなかれ。
古来より、乙女の危機にはヒーローが駆けつけるのがお約束というものなのです。
「もう逃げられんぞ。おとなしく……がっ」
「な、なん……ぎっ」
「ぐぇ」「げはぁ」「ごふっ」
ラック達にも、そして追跡者達自身にも何が起こったのか分からぬまま、突然彼らがバタバタと地面に崩れ落ちたではありませんか。
「安心して。峰打ち」
「おいおい、素手に峰打ちも何もないだろう。っと、狭いなここ。マグロの頭が引っかかって入れん」
絶体絶命のピンチに颯爽と現れたヒーロー。
彼らは何故だか生のマグロを担いでいました。




