まぐろ
第一迷宮『樹界庭園』。
普段とは毛色の違う賑わいを見せる学都の街とは違い、迷宮の中はいつも通りに静かなものです。普段より探索や修行に訪れている冒険者の数が若干少なくはありますが、違いといえばその程度でしょう。
この迷宮内に居を構えるライムは街での騒動など露知らず、普段と変わらぬ平穏な午後を迎えていました。
「お待たせ」
「よっ、待ってました!」
家の軒先で「獲物」の解体・調理を終えて食卓に戻ると、待っていたタイムが歓声を上げました。今日の午前中、ライムは修行と食料調達を兼ねて他の迷宮まで足を伸ばしていたのですが、そこで思わぬ大物を仕留めることができたのです。
熊や猪などの獣肉を好むライムですが、時にはシーフードを食べたくなる事もあります。普通ならわざわざ海辺まで足を伸ばさねばならないところですが、七つの神造迷宮の中には海が主体となる迷宮もあるのです。
現在ライムが入る資格を有しているのは七つの迷宮の五つ目までですが、幸いその海洋迷宮は彼女が入れる内の一つ。本格的な探索となれば準備も必要ですが、浅い区画で食料調達をするだけならば、ちょっと近所に買い物に行くのと変わりません。
「おーい、大トロはどうする? とりあえず、言われた通りに切り分けてきたが」
「刺身と炙りで」
軒先で獲物の解体作業を手伝っていたシモンが、血に濡れた愛剣を拭いながら入ってきました。タイムの護衛のつもりで一緒にここまで来て、そのまま作業に借り出されたのです。
徒手格闘と魔法を組み合わせた戦法を得意とするライムですが、刃物の扱いであればシモンのほうが長けています。熊くらいなら一人で捌けないこともないのですが、獲物があまりに大きかったので、今回は彼に解体の手伝いを頼んでいました。
「休憩」
「そうだな、俺も少し休むか」
ただ倒すだけならばともかく、味を損なわないように捌くとなると中々に気を遣います。ライムが仕留め、シモンが奥義まで使いながら解体作業に従事していた獲物とは、通称ICBM(intercontinental,ballistic,maguro)。その名を「大陸間弾道マグロ」という、全長20メートルを優に超える巨大なマグロ型の魔物。外の世界では遥か昔に絶滅し、今では迷宮の中にしか存在しない、明らかに進化の方向性を間違った怪生物です。
海面から超音速で飛び出したかと思えば、そのまま高度一万メートル近くまで上昇し、数千キロも離れた海面に着水、いえ着弾して周囲の海域とそこに住まう生物を例外なく爆散させる。上昇時の加速や、着弾時の爆発の中で無事だったりするのは明らかに物理法則に反しているのですが、そこには何らかの魔法が作用しているようです。
魔物の中にも本能的に原始的な魔法を行使する者はいますし、このICBMもその一種なのでしょう。DHA(ドコサヘキサエン酸)が豊富なので頭が良いのかもしれません。
そうして周辺一帯の海は犠牲となった海洋生物の肉片とそれを糧に微生物が増殖し、当のマグロはそうして増やしたプランクトンを食べて暮らすという、謎の生態をしています。
本来、迷宮の魔物は魔力だけあれば生きていけるので通常の食事を不要なのですが、マグロというのは口を開けたまま泳いで酸素や栄養源の微生物を取り込んで生きる生物。というか、常に泳ぎ続けていないと窒息して死んでしまうので、必要はないし嗜好品というワケでもないけれど食事をせざるを得ない、迷宮の魔物としては相当に変わった部類であると言えるでしょう。
同時にかなり強い部類の魔物でもあり、本来であればライムでも単独での討伐は困難、そもそも発見することが難しいのですが、今日は珍しく迷宮の浅い区画に出現していたようです。
それが加速して“発射”して逃げる前に電撃の魔法を放って感電死させ、何十トンもある巨体を苦労してここまで担いで運んできたのだとか。重量軽減や身体強化を何重にも重複発動させれば確かに不可能ではないのでしょうが、いくらライムでも決して楽ではなかったのでしょう。だからこそ、良い修行になるのかもしれませんが。実に珍しいことに、身内が見れば分かるくらいには疲れた顔をしていました。
「美味いっ」
「うむ、いけるな。鮮度が良いから変な臭みもない」
「ん」
まあ、入手過程はともかく味に関してはごく普通の、いえ大変美味しいICBMです。大皿には大量のトロの刺身が盛られていますが、これでも全体の1%に満たない程度。
マグロ節やマグロジャーキーのような保存食に加工するか魔法で凍らせるなどすれば多少は日持ちしますが、魚屋に売ったり知り合いに配るなどして減らす方法を考えたほうが良いかもしれません。
生魚はゲテモノ扱いで忌避されることも少なくないのですが、この三人はいずれも魚の生食に抵抗はありません。まあ、熊の刺身がイケる時点で今更ですが。
醤油や迷宮産の山葵を付けると、解体中にあらかじめ炊いてあった白米が大変よく進みます。刺身だけでは飽きも来るということで、賽の目に切った大トロを串に刺して炭火で炙ったり、衣を付けて揚げ物にしたり。文字通りの食べ放題です。
「ううむ、こう美味い肴があると昼から一杯やりたくなるなぁ」
「無い」
タイムは刺身を肴に昼酒と洒落込みたかったようですが、残念ながらライムの家には料理の風味付けに使う分くらいしかお酒は置いていません。
「お土産」
「うん、幾らか貰っていって屋敷で飲めばいいか」
ライムも苦労して仕留めはしましたが、別に独り占めする気はありません。というか、一人では到底食べきれる量ではありません。しばらくはシモン達の屋敷でも魚料理が続くことでしょう。
◆◆◆
「いや、時間を持て余して来てみたけど良いタイミングだったね」
食後、タイムはお茶を飲みながら朗らかに笑いました。
なんでも、元々今日はキチンと仕事をするつもりであり、ライムの家を訪ねる予定はなかったのだとか。肖像画の仕事を進めようと午前中に領主館を訪ねたのですが、モデルとなる伯爵に急な予定が入ったということで館の執事を通して面会を断られ、急遽時間が空いてしまったのだそうです。
まあ、それで暇潰しの為に妹の顔を見に来たお陰で、こうして美味しい思いができたのだから文句などありませんが。
「そうだ、伯爵にもお裾分けをしてやろう」
だから、タイムがそう思ったのも純粋な善意から。
伯爵本人には会えなくとも、既に館には顔パスで入れるようになっているので、使用人に言伝を頼んで渡せば問題はないでしょう。
大河に面しているので魚自体は珍しくありませんが、干物や塩漬けではない新鮮な海の魚となると学都では中々食べられません。下流の海に面した街から遥々船で河を遡ってくるか、迷宮都市から鉄道で運ぶことはできますが、どうしても鮮度が落ちてしまいます。
迷宮で海産物が取れるとはいえ、それだけ奥の迷宮に入れる力量のある冒険者は全体からすれば数少なく、また、それほどの実力者となると漁師の真似事をして小銭を稼がずとも既に充分な儲けがあります。なので、全く無いわけではないにしても、新鮮な海の魚が学都の市場に出回ることは少ないのです。
「二人とも、ちょっと運ぶのを手伝ってくれないか。私だけじゃ重くて無理だからさ」
「うむ、引き受けた」
「ん」
ICBMの切り身、メートル単位のそれを運ぶのはタイムだけでは厳しいので、シモンとライムに荷運びを頼んだのも、だから当然。ライムは少し疲れがありますが、それでも精々百kgに満たないブロック肉を運ぶくらいなら問題ありません。
「そうだ、俺も領主殿には世話になってるし、折角だから一番美味い部分を持っていくとするか。構わんか、ライム?」
「ん、兜焼きがおすすめ」
そして、気を利かせたつもりのシモンが巨大マグロの生首……首の無い魚類にその呼称が適当かは議論の余地がありそうですが……を、持っていくことを提案しました。決して嫌がらせではありません。マグロというのは捨てる部分が無い魚で、頭部も兜焼きや兜煮にすると非常に美味なのです。
「よし、っと。ちょっと不恰好だが、まあ大丈夫だろう」
衛生的には全面を清潔な布か何かで覆うのが良いのでしょうが、頭部だけでちょっとした物置くらいありそうな大きさを包める布など置いていません。仕方がないのでロープでグルグル巻きにした状態で、シモンが担いでいくことにしました。恐ろしくシュールな外見です。
ライムが持つブロック肉は、元々あった布に合わせて小さく切ったので、こちらは見た目に関しては多少マシでしょうか。あくまで多少止まりですが。
どちらも切断面は既に乾いているので血が滴ったりは“あまり”しませんし、ちゃんと火を通して調理すればお腹を壊したりはしないでしょう。シモンが一緒なら道中で職質を受けることもないはずです。だから、何も問題はありません。一切ありません。無い。
「さあ、それじゃ行こうか二人とも」
こうして一人だけ手ぶらで身軽なタイムの号令の下、ICBMを担いだ奇怪で危険で奇妙な一団が学都の街に解き放たれてしまったのです。
昨日は予告なく更新を休んでしまいましたが、花粉症の時期は突然動く気力がなくなる事がしばしばなので今後もしばらくは同様のことが起こるかもしれませんので、ご了承いただけると幸いです。




