初心者講習:水分摂取と装備選択について
ルカの肩を借りてどうにか次の休憩地点まで辿り着いたレンリは、肉刺の治療のためにブーツを脱いでみたのですが、
「痛たっ!? うわ、靴の中が血だらけだよ……」
「だ……大丈、夫?」
「正直、あんまり大丈夫じゃないかな……」
苦心してブーツと靴下を脱ぐと、足の裏の血肉刺がいくつも破れており、それ以外にも足指や足首に靴擦れによる傷が何箇所もできていました。
レンリ自身も歩いている時に湿っぽい感触を覚えていたのですが、実際に確認してみるとブーツの中は血塗れと言っても過言ではないほどの状態でした。
「ルー君、すまないが私の鞄を取ってくれ。中に薬が入ってるから」
「ああ、うん」
レンリは預けていた肩掛け鞄から軟膏を取り出し傷口に、というか両足の足首から先のほぼ全部に塗って、その上から包帯をきつく巻きつけました。痛み止めの効用もあるはずなので、薬が効いてくればどうにか一人で歩ける程度にはなるでしょう。
「でもさ、レン。その鞄、ちょっと詰め込みすぎじゃない?」
「うん、私もそんな気はしてた……肩紐が肩の肉に食い込んで痛いし、重くて歩きにくいし」
出発時より幾分減ったとはいえ、レンリの鞄はまだパンパンです。
不測の事態に備えてあれこれと入れてきたのが逆に仇になっていました。万全の状態でなら大して苦にならずとも、消耗しきった現状においては重りにしかなっていません。
「……軽くしたいから食べられる物は食べてしまおうか。二人も減らすのを手伝ってくれないかな……」
「う、うん……」
「じゃあ遠慮なく」
とりあえず少しでも荷物を軽くする為に、ルカやルグにも手伝ってもらって缶詰や瓶詰の類を消化してしまうことにしたようです。
肉の油漬けや果物のシロップ煮など、残っていた食料だけでも1kg以上。三人で分けても充分すぎるくらいの量がありました。
「ツバが出ないから飲み込みにくい……それに、肉の匂いが気持ち悪い……」
そして、身体の水分と体力を消耗しているせいでしょう。
唾液が出ないので食べ物を噛んでも飲み込みにくい上、レンリにしては非常に珍しいことに食欲自体が全く出ないようです。
普通に生活していると気付きにくいものですが、物を食べたり消化吸収するのにもある程度の体力は必要で、完全にバテている状態だと本能的に身体が食べ物を受け付けないのです。
「無理して喋らないほうがいいですよ」
と、休憩中の受講者の様子を見て回っていたイマ隊長がレンリ達三人のところにやってきました。
「はい、どうぞ、レモンです。食欲がない時でも酸っぱい物なら食べやすいですから。ルグさんとルカさんもどうぞ」
隊長は三人にレモンの実を渡して言いました。
周りを見れば、いつの間にやら他の受講者たちもレモンを齧って酸っぱそうな顔をしています。恐らく、教官達があらかじめ配るために用意していたのでしょう。
「……っ! これは、ありがたい! ありがとうございます!」
「いえいえ、お気になさらず」
レモンに皮ごと齧りつくと、鮮烈な酸味と共に果汁が口内に溢れてきました。
今の渇ききったレンリには、味よりもその僅かな水分が何よりもありがたいようです。
「ルグさんとルカさんは、まだ余裕がありそうですね。レンリさんは頭痛や吐き気はありませんか?」
「ええ、実はさっきから頭がズキズキと」
実はこの時、レンリは水分不足により軽度の脱水症状を起こしていました。
水分不足で眼球がヒリヒリと痛み、口の中は完全にカラカラ。
渇いた唇が割れて血が出始めるような状態です。
脱水症状の初期段階においては、まず目眩やふらつき、鈍い頭痛が断続的に起こり、次第に吐き気や悪心、重度の症状になると全身の痙攣や意識障害が引き起こされる可能性もあります。
「ふむふむ、それでは予備の水筒をお貸ししましょう……あ、でも飲んじゃダメですよ」
「……っ!?」
レンリの症状を確認したイマ隊長は、自身の鞄の中から小さめの水筒を取り出すと……渡さずに一旦手を引っ込めました。レモンを齧って僅かに回復したとはいえ、まだまだ弱っているレンリは愕然としています。もう完全に普段のような余裕がないようです。
「喉が渇いていると、ついガブ飲みしたくなっちゃいますけど、それじゃダメなんですよ。飲むんじゃなくて舐めるようにしてください。そうですね、その水筒一つを次の水場までの時間いっぱいかけて消費する感じでお願いします」
水の飲み方一つにしても、補給場所が限定される状況では気を遣う必要があります。
喉が渇いていると、つい一度に大量に飲みたくなってしまうものですが、体内への吸収効率を考えるとそれは得策ではありません。
人間の身体は口から摂取した物の栄養素や水分を主に小腸で吸収するのですが、一気にガブガブ飲むと腸壁で吸収する前に大部分が小腸を通過し、そのまま排泄されてしまうのです。
少しでも吸収効率を上げるためには一度に飲む量は少なめに、なおかつ体調を崩さぬよう少なすぎない程度に摂取するのが良いでしょう。
「レンリさん、一日の行程にしては随分と食べ物を持ってきたんですね。でも、食べ物よりもまず水が大事ですよ。これ基本です」
水の大切さについては、レンリも現在進行形で身をもって学んでいるところです。
人間の身体はその気になれば数日程度の断食には耐えられますし、全く動かずエネルギーを節約すれば半月以上も生き延びることも不可能ではありません。
しかし、水分に関しては一日二日程度の断水でも様々な不調が出てきますし、それが三日四日ともなると死に至っても不思議はありません。迷宮内のような運動によって汗をかきやすい環境ならば、重篤症状に至るまでの時間は更に短いでしょう。
そうして水分補給に関する教示は一段落しましたが、イマ隊長は続けて別の失敗を指摘しました。
「あ、新品の靴をそのまま履いてきちゃダメですよ。サイズがピッタリでもちゃんと足に馴染ませてからでないと」
そう、学都に来る前に仕立てたばかりのブーツは頑丈でサイズもピッタリですが、まだレンリの足に馴染みきっていなかったのです。出かける直前にマールスやアルマが気付いたのも、その点についてでした。
もちろんレンリも買った後でいくらか歩く程度はしていたのですが、なにしろ素材が頑丈な革製なものですから、舗装された道路を数時間歩いた程度ではどうにもなりません。荷物に続いて、準備が裏目に出てしまった形です。
ルグやルカがここまでレンリと同じ距離を歩いているのに大して消耗しておらず肉刺に苦しんでいないのも、単に体力や肌の丈夫さの違いというだけでなく、彼らが普段から履き慣れている靴をそのまま履いてきたという装備面の理由が一因として挙げられるでしょう(もっとも、彼らが普段使いの靴をそのまま履いてきたのは、主に経済的な理由によるものでしたが)。
「まあ、最初のうちは仕方ないですよ。何度も肉刺を潰していれば自然と足の皮が丈夫になってきますから。私も新兵の頃は消毒も兼ねて塩を擦り込んだりしてましたねぇ」
「どこかで聞いたような話だね……」
「帰ったら、しばらくは靴の慣らしも兼ねて毎日散歩でもするといいですよ。なんなら、迷宮の浅いところを歩いてもいいですし」
レンリは隊長の助言をしかと心に刻み、それから深い溜め息を吐きました。
普段はあまり泣き言を口にする性格ではないのですが、大きく消耗しているせいで心も幾分弱っているのでしょう。
「こうも失敗ばかりだと、なんだか自分が嫌になってくるよ……」
準備という準備が裏目に出て、オマケに同じ初心者のはずのルグやルカの世話になっている現状が、かなり堪えているようです。
「いいんですよ。もっと、どんどん失敗してください」
イマ隊長はそんなレンリに、むしろ失敗を重ねるようにと勧めるようなことを言いました。
「今回は私達がいますから、とりあえず死ぬことはありませんしね。今のうちに、じゃんじゃん痛い目に遭って、たくさん失敗して、あと恥も掻けるだけ掻いておいたほうがいいですよ」
この助言、果たして優しいのやら厳しいのやら?
「うふふ、まだ行程は半分以上残ってますから楽しみにしててくださいね? さ、そろそろ休憩を終わりにしましょうか、ふふふ楽しみですねぇ」
まるで、レンリ達受講者が酷い目に遭って苦しむのが楽しみであるかのようです。
とても良い笑顔のイマ隊長を前に、レンリは引きつった笑みを浮かべることしかできませんでした。