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記憶喪失


 記憶喪失。

 読んで字の如く、保持していた記憶の一部、または全部を失ってしまう現象です。

 その症状を実生活や創作物の中で目にしたことのある方は少なくないでしょう。


 その原因は大きく二種類に分けられます。

 頭部に強い衝撃を受けたことによる外因性。

 脳梗塞や痴呆等による内因性。


 また、原因が似通っていても症状は人それぞれで大きく違います。喪失が一時的ですぐに思い出せる場合もあれば、生涯に渡って失った記憶を取り戻せない場合も。

 それに、記憶の一部だけを忘れてしまったケースでも忘却の内訳は様々で、最近の物事は全く思い出せないのに、何十年も前の些細な出来事は鮮明に記憶しているような、もしくはその逆の事例も存在します。

 その症状はまさに千差万別。

 脳という器官は未解明の部分が多く、また個人差もあります。どのような原因がどういう形で作用するかなど、どんな名医にもほとんど分からないのです。








 ◆◆◆








「うぁ~……なんか頭がズキズキする……」


 言葉まで忘れていたら、こうして独り言を呟くこともできません。

 まだフラフラとよろめいてはいますが、自力で起き上がることもできています。

 不幸中の幸いと言うべきか、今回のフレイヤの症状は言語や運動機能に障害が及ぶような重度のものではなさそうです。あくまで現時点で判断する限りは、ですが。

 実体とエネルギー体の中間状態であった為に完全には衝撃を逃がせませんでしたが、それでも墜落時の勢いは大きく削がれていたのでしょう。多少の頭痛はありましたが、特に怪我もなさそうです。



「ここ、どこだろ?」



 周囲には砕けた石畳や、周囲に置かれていたらしき古い木箱の破片が散乱しています。既に鎮火していますが、若干の焦げ痕や焦げ臭い匂いも残っていました。今の彼女に自覚はありませんが、炎化による影響は最低限で抑えることができたようです。

 それ以外に目に付くのは、何かの倉庫らしき建物が並ぶ殺風景な光景くらい。

 実際、今しがた落ちてくるまで来たことなどないのだから当たり前ですが、フレイヤには全く見覚えがありません。しかし、彼女自身は自分が空から落ちてきたことすら知らないのです。

 とはいえ、自分がどこの誰なのかという根本的な問題の手がかりを得るべく、どういう道程を辿ってここまで来たのか考えようとするのは至極当然の流れでしょう。むしろ、本来の彼女よりも論理的で聡明かもしれません。


 

「ん~? あいたた……」



 しかし、残念ながらいくら頭を捻っても何ひとつ思い出せません。

 無理に思い出そうとしたせいか、頭痛が強くなっただけでした。


 自力で思い出せないのならば、次にすべきは自分のことを知っている誰かを探すべき。天涯孤独という可能性もありますが、社会生活を送っているのなら他人との最低限の関わりはあるはず。自分が着ている衣服も、それらを購入や譲渡等の手段によって入手可能な立場であった証左となる……という冷静な現状考察を、フレイヤはごく自然に行っていました。


 また次善の策として、公的機関や医療機関に事情を伝えて保護を求める手もありますが、この都市のそういった組織が信頼に足るものであるか現状では不明。身柄を委ねるにしても、街の様子を観察して安心材料を得てからのほうが良いだろう……とも冷静に考えています。


 やはり普段の様子とは異なりました。

 ここにその違和感を指摘できる人物はいませんが、彼女の知り合いが今のフレイヤを見たら、きっと腰を抜かすほどに驚くでしょう。

 思考力と記憶力は必ずしもイコールで結べませんが、普段からこれくらいの聡明さを発揮してくれていたら、台本の内容もとっくに覚えていたような気がしなくもありません。もっとも、今のフレイヤには自分が歌手やら役者をやっていた自覚すらないのですが。



 そうして、ひとまず行動の指針を定めたフレイヤは、最初にいた倉庫街の裏道を離れようとして、



「おぅ、ホントに大丈夫みたいだよ。おーい、そこのキミ大丈夫?」


『クルルル?』



 その時、空から人間を乗せた鷲獅子グリフォンが、バッサバッサと向かってきました。







 ◆◆◆







 ロノの巨体ではフレイヤがいた狭苦しい道には降りられません。

 なので、ラックだけが周囲の倉庫の屋根に飛び降り、そこから窓枠に手足をかけながら器用に地面まで降りてきました。単純な筋力や跳躍力は常人の域を出ない彼ですが、数多のトラブルで実戦的に鍛えられた逃げ足は伊達ではありません。今回は逃亡ではありませんが、建物の窓や柱を利用して移動するくらいは朝飯前です。



「やぁ、そこのキミ。大丈夫?」



 そうして、なるべく警戒させないよう笑顔で語りかけました。

 しかし、悲しいかな。ラックの顔の形状自体はどこに出しても恥ずかしくない美男子なのですが、身に染み付いた軽薄な雰囲気が全てを台無しにしています。

 普段のフレイヤならそんな雰囲気に気付かず、また強者の余裕もあって臆せず会話に応じたのでしょうが、今の妙に頭が回るようになっている彼女は、この時点で早くもラックに警戒心を抱いていました。

 心配して声をかけてきた相手に対し礼を失する態度ではありますが、現在の彼女は自分が強いということすら知りません。そんな状況でいかにもヘラヘラとした浮薄そうな男が声をかけてきたのですから、用心するのは当然でしょう。

 フレイヤはその警戒心を悟られないように、なおかつこの場から逃げるタイミングを計るように隙を窺っていたのですが、


 

「あんな所から落ちたにしては元気そうだねぇ?」


「あのふねから……? アタシ、あんな高さから落ちたの?」


「ホント驚いたよ。いやぁ、よく無事だったもんだ」



 目の前の男から自分の正体に関係しそうな話が出たことで、少しだけ警めを緩めました。

 そもそも逃げようにも周囲の道も、どこまで逃げれば安心出来るかも分かりません。少なくとも今すぐ危害を加えてくるような気配はありませんし、フレイヤはラックから可能な限り情報を引き出すべく行動方針を修正しました。



「うーん……あんまり無事じゃないかも」


「記憶がない?」


「うん、そうみたい」



 差し当たり、まず自身の状態について正直に伝えました。

 弱みを見せることはリスクにもなりかねませんが、隠そうとしても自分の名前すら知らないようでは、取り繕おうにもすぐに露呈してしまうでしょう。それなら、いっそのこと最初から何も知らないことを正直に明かしたほうが、スムーズに事が運ぶだろうという判断です。



 一方のラックも、何やら面倒な事態に巻き込まれつつある予感をひしひしと感じていました。こういったトラブルに関しての嗅覚の精度は並ではありません。



「これからどうするんだい? 医者に行くか、それともあの飛空艇に戻るなら送ってあげるけど?」



 この提案も半分は親切心ですが、残りの半分は厄介事の元を穏便に手放してしまいたいという意思の表れです。一度関わってしまった手前見捨てる気はありませんが、最低限の義理を果たしたらそれで手を引けばいいかとドライに判断していました。


 それにラックの提案は、記憶を失ったフレイヤにとってありがたい内容であることに間違いありません。飛空艇には身元が分かる知り合いがいるでしょうし、記憶を取り戻す手がかりになるでしょう。フレイヤ自身も合理的に考えるならその言葉に甘えるべきだとは思っているのですが、劇場艇を見上げる彼女の顔色は何故だか優れません。



「あれ、どうかしたのかい?」


「よくは思い出せないけど……あそこで何かすごく怖いことがあった気がする」


「怖いこと?」


「うん、それで逃げてきた……ような? うっ、頭が!」


「肝心な部分が曖昧だねぇ」



 本人にも上手く説明できない状態ながら、殺人的な過密スケジュールの恐怖を身体が覚えていたのでしょう。理由はよく分からないけれど、艇に戻ったら大変なことになりそうだという確信だけは今の彼女にもあるようです。



「怖いことから逃げてきた、ねぇ?」



 ラックには今の話の真偽を判断する材料はありません。

 フレイヤ自身にも明確な説明はできないのだから無理はないでしょう。



「ところで、逃げてきたっていうなら、誰か追いかけてきたりするんじゃないの?」



 上空の飛空艇は進路を街の西側へと向けています。

 郊外の平地に着陸し、落下したフレイヤを連れ戻そうとしているのでしょう。

 だから、逃亡者に対する追っ手が差し向けられるのではというラックの推測も、そう大きく間違ってはいません。



「そ、そうかも? うん、そうだ、逃げないと! 捕まったら酷い目に遭う……気がする」



 しかし、フレイヤには逃亡先の当てはおろか、自分がどこにいるのかも分かっていません。ただ不気味な実感として、暫定敵である追っ手に捕まったら酷い目に遭わされるであろうという、謎の確信があるだけです。

 彼女には真っ赤な飛空艇が愉快な芸人集団の本拠ではなく、恐るべき悪の組織にでも見えているのでしょう。まさか、数分前の自分が稽古をサボりたいなどというどうしようもない理由で子供っぽい駄々を捏ねた挙句、間抜けにも足を滑らせて落っこちたなどとは夢にも思っていませんでした。



「でも、どうしよう、どこに逃げたら? ……あ」


「うん、どうかしたのかい?」 



 右も左も分からない窮地にありながら、頼れる相手など誰一人としていない……と、思いかけたところでフレイヤは気付きました。

 最初は警戒しましたが、特に敵対行動を取る様子はありませんし、この場に来たのも純粋に彼女の安否を気にかけたからのようです。完全に信頼できるかと言えば微妙ですが、少なくとも全くの悪人ではないように思えます。



「あ、あの、逃げるのを手伝ってくれない……かな?」



 だから、こういう流れになるのは、ある種必然だったのかもしれません。



頭を打ったせいでアホの子がお利口さんになってしまった……

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