第二の試練⑧
ゴゴから手短に状況を伝えられたシモンは、最初から油断なく奥の手を切りました。
「済まぬが、少し手荒になるぞ!」
シモンの奥義の一つ、高重力による拘束結界。
範囲内の全てに作用する結界であれば、発動後に回避することはできません。
平常の五十倍もの高重力がルカを捉えました。
「あ……あぁ……っ」
「これほどの才を秘めていたとはな。純粋な膂力なら俺たち以上か」
しかし、効果の程は今一つのようです。
常人なら致命的な負荷にも関わらず、ルカの動きは僅かに鈍った程度。
シモンと出力を増したゴゴも結界内で行動することはできますが、これでは折角の結界もアドバンテージになりません。
「なら、こちらはどうかな?」
ですが、重力結界の真価は高重力で敵を攻撃する点にありません。
術者であるシモンの意思一つで自在に重力強度が変動し、予測も反応も許さず、強制的に隙を作り出すことができるのです。
「……あ……」
突如、周囲一帯にかかる重力が逆向きに。
ルカを含む全員の身体がふわりと宙に浮きました。
あらかじめ察知していれば床にしがみ付くなり、手足をめり込ませて身体を固定するなりといった対策も取れるかもしれませんが、本能だけで暴れている状態ではそれもままならず。
いくら脚力が強かろうとも、蹴るべき地面がなければ動くことはできません。ロクに身動きを取れず、ジタバタともがくことしかできないでしょう。
実際、これまでのゴゴの苦労が嘘のように、ルカはあっさりと空中に浮かべられ無力化されていました。
いつぞや100m以上もの大きな範囲に展開したのと違い、周囲数mだけの小さな結界であれば長時間維持することも可能です。あとはルカに近付かないように注意しながら、正気を取り戻すか、疲れ果てて動けなくなるまで空中に拘束していれば事態は解決――――。
ここが天地不定の第二迷宮でなければ、確かにそれで終わっていたことでしょう。
『天井に落ちて脱出するとは……!』
この第二迷宮では、足を向けた方向がその人物にとっての『下』になるという奇妙な特性があります。平面構造の建物とは一線を画した立体迷宮としての性質を、見事に利用されてしまいました。
ただジタバタともがいていただけに見えたルカですが、実際には空中でくるくると回りながら、逃げ道を探っていたようです。
足を振り上げて、天井に向けて落下し結界の効果範囲から脱出。
高所から落ちた猫のように両手足で着地を決めました。
「なんとっ!」
『そんな馬鹿な……』
そして、今の一連の行動は彼女に更なる進化のキッカケを与えてしまったようです。
跳躍してからすばやく姿勢を変えて、自身に作用する『下』を自在に制御。
足を向けた方向に落下するという性質を活かしての、空中での急激な方向転換や急停止、擬似的な飛行までをも習得しつつありました。
第二迷宮内だけの限定的なモノとはいえ、その当の迷宮本人にすら思いもよらなかった発想と技術。まるで、密林の木々を跳び回る猫科の猛獣の如し……いえ、それらをも遥かに凌駕しています。
ルカは壁や天井を足場にしながら、立体的な変則軌道、高速機動を以てシモン達に襲い掛かってきました。
『防ごうとしてはいけません。絶対に避けてください!』
「くっ、難儀な!」
天地上下左右の別なく迫り来る、縦横無尽にして防御不能の連撃。
再展開した結界術で多少の減速はできているので、今のところはどうにか回避に成功していますが、一発でも直撃を受ければ致命的。必然、回避に徹する消極的な戦法を取らざるを得なくなります。
これがお互いが命懸けの前提を呑んでの決闘であるのなら、まだやりようはあるかもしれません。が、生憎とこれはそのような戦いではないのです。ルカを無事に大人しくさせるという目的の為には、自然と取れる手段は少なくなります。
剣や槍のような刃物は使えず、出来るのは徒手や打撃武器による殴打のみ。
眼球を狙った目潰しや、ノドを狙って窒息させる危険な攻撃も使えない。
しかも、ルカはお構いなしに攻撃を繰り出してきて、その動きは時間と共により鋭く、力強くなっていくのです。未だに全く強さの底が見えてきません。
「ぁ……や、ぁ……あぁあ……!」
獣染みた咆哮を上げながら襲いかかるルカに対し、シモンとゴゴは二人がかりで狙いを分散させながら、辛うじて回避を続けていきました。
◆◆◆
この事態に陥った原因はいくつかありますが、大きな要因の一つとして、ルカは怒りという感情にあまりにも不慣れだったのでしょう。幼い頃から十年以上も感情や行動を抑圧していたせいで、喜怒哀楽の「怒」を表すことが全く無かったのです。
確かに、力を制御する上で怒りは大敵となり得ます。
ヒトの抱き得る感情の中でも、憤怒は特に攻撃的な行動に繋がりやすい。
一般人でも“つい、カッとなって”暴力を振るってしまうケースは珍しくありません。その“つい”が致命的な大事故に繋がりかねないルカは、攻撃行動を抑える為にそもそも最初から怒らないことにした……一応は道理が通っています。
しかし、怒らないというのは必ずしも良い事ばかりではありません。
時や場所を選ばず周囲を怒鳴り散らすような愚行は論外にしても、全く怒らないというのもそれはそれで問題です。
普段は虫も殺さないような温厚な人物が稀に怒った際に、誰も手が付けられないほどの勢いで激怒したというような話は少なくありません。怒り慣れていないので加減が分からないという事もありますが、普段から抑え込み溜め込んでいたストレスが堰を切ったように溢れ出してしまうのです。
怒りとは、例え一時は抑え込んでも易々と消えてはくれません。本人が意識せずとも心の奥底で種火が燻り続け、何かの拍子に一気に燃え上がる。
一度そうなったが最後、もう全部を吐き出すまで止まることはありません。
まあ、普通は秘めていた戦闘センスまで解放されたりはしないのですが。
今回は精神面の抑圧と運動機能の制御が密接に紐付けられていたが故の、極めて特殊なイレギュラーでしょう。
今回の場合、直接のキッカケは自分の身代わりになったせいでルグが大怪我をしてしまったという自責から来る自身への怒り。意図せず彼に危害を加えてしまったゴゴへの怒りも幾らかはあるかもしれませんが、主となるのはルカ自身への自責の念。
冷静に考えるならば、今回の件は半ば事故のようなものであるとルカにも分かったはずです。怪我をしたルグ本人にしても、意識があればルカが代理で復讐するのを決して良しとしないでしょう。
周囲への無秩序な攻撃についても、単なる八つ当たりのようなモノ。
この暴力には何の道理も正当性もありません。
しかしルカにとって、自分のせいで近しい誰かが大怪我をするというのは、心に根付いたトラウマを強く刺激する状況でした。重ねて、幼少期から発散されることなく溜め込み続けた怒りの総量は、もう無視するには多くなりすぎていたのでしょう。
「……いや……もう、やだ……」
しかし、怒りの解放とは必ずしも心地良いものではありません。
怒り狂うという表現の通り、半ば以上まで自我を手放した狂乱の最中にあってもそれは同様。
心身を焦がし焼き尽くすような憤怒も、それに混じる悲哀も、吐き気がするほどにおぞましい。それらが自身の内から湧き出たものだとしたら尚更です。
そんな感情を生み出した自己への怒り、嫌悪、失望、諦念。
なのに、ヒビ割れた心は尽きることなく悪感情を吐き出し続け、自力で止めることは叶いません。
滅茶苦茶に暴れているのは、自身を取り巻く何もかもを壊して、辛さの原因となる全部を無くしてしまいたいという気持ちの発露でもあるのでしょう。
勿論、そんな破壊衝動に任せても楽になるはずがないのですが。
十分か、三十分か、一時間か……そんな風にどれだけ暴れたでしょうか。普段のルカなら、いくら魔力が多いとはいえ、とっくに体力か魔力が切れて動けなくなっているはずです。
恐らくは生命力を直接魔力に変換しているのでしょう。
とっくにスタミナを使い果たしているのに、痩せ我慢だけでマラソンをしているようなものです。疲労や酸欠の影響もありますが、根本的な生命力が損なわれているせいで、既にルカの視覚や聴覚はまともに機能していません。それほどまでに消耗しているのです。
このままでは、本当に死ぬまで暴れ続けるかもしれません。
いえ、むしろそうして楽になる為に、最後の一滴まで生命を燃やし尽くそうとするかのような凄絶な姿でした。
「……もう……わたし、は……」
自分に残った何もかもを燃やし尽くして、消えて無くなってしまいたい。
そんな自罰的で破滅的な暴走は、しかし――――。
「いいや、消えないさ。キミ自身にだって消させない。だろ、ルー君?」
「ああ、止まれないなら俺が無理矢理止めてやる! 戻ってこい、ルカ!」
しかし、レンリに肩を貸されたルグが現れ、事態は一気に解決へ向かう事となりました。