ルカは苦手を克服したい④
「……ふむ、なるほどね」
ルカがリンやラックから昔の話を聞いた翌日。
彼女自身も意外だった「昔は走るのが得意だったらしい」という話を本人から聞いたレンリは、一人で何かに納得していました。今の話を元に考えて、ルカが速く走れない理由に思い当たったようです。
「さっきのルカの話が走る速さに関係あるのか?」
「そう……なの……?」
「ああ。勿論、関係大アリだとも。そうだね……ルカ君、ちょっと握手をしよう」
「え……あの……?」
ルカは求められるままに握手に応じましたが、レンリの意図が読めないようです。
ともあれ、いつもの生活でしているように慎重に手を動かし、握っている手をうっかり潰さないように注意していました。
「やっぱりね。なるほど、そういう事か」
レンリは何かに納得していましたが、ルカにはさっぱり事情が飲み込めません。
この握手と速く走れない理由に何か関係があるのでしょうか?
ここまで言い終えたところでレンリは手を離しました。
「そもそも、だ。ルカ君が普通に日常生活を送っている“ように見える”ことに疑問を持つべきだったのだよ」
「疑問? それは、ルカが慎重にしてるからだろ」
「そう、慎重にやっているんだ。ただし、私達が想像するような慎重さとは精度がまるで違う」
慎重さの精度が違う。
そう言われても当のルカにはピンと来ない様子ですが……まあ無理もないでしょう。
彼女は幼い頃からやっているのと同じように、ただ注意しているだけなのですから。
「そもそも前提となる力の絶対量が私達とルカ君では全く違うんだ。ある程度の出力調整は出来ても強化自体のオンオフはできない。そうだね?」
「うん……そう、だけど……?」
ルカの身体強化は必要に応じて力の出力を上げることはできますが、その逆に一定以下に弱めたり完全に解除することはできません。ある意味では呪いにも近い性質です。自由な切り替えが出来れば他人に怪我をさせるような事もなかったでしょう。
「例えば……普通の人が卵を持つ時は握り潰さないように力を加減するだろう? でも武器や家具みたいな物だったり、他者の身体に触れる時にそこまで注意することはない。そもそも多少力を込めたところで壊せやしないし、注意する意味はないからね。だけど……」
ルカの場合は、生活する上で身の回りに存在する全てのモノに注意しなければならないのです。
ただ歩くだけでも下手をしたら地面の石畳を踏み砕きかねません。
料理をする時は包丁や食材を握り潰さないように常に意識していますし、着替える時は服を破いてしまわないように注意しなければならないのです。それら以外の無数の日常の場面でも似たような具合でしょう。
一瞬一秒の気の緩みが惨事に繋がりかねないのです。
こうして普通に生活できているのが既に奇跡のようなものでした。
「さっき握手をした時も握るというより、そっと触れるだけだったろう。力を込めると危ないからね」
意図的に壊そうとする場合は別ですが、何かを持ったり握ったりという場面では軽く触れるだけ、あるいは重さを保持できるギリギリの力しか出さないような習慣が染み付いているのでしょう。
しかも、その難度は常人の比ではありません。
普通の人間が全力の10%を出す場面でも、ルカにとっては小数点以下の繊細な力加減を要求される精密作業。それを朝起きてから寝るまで、それどころか寝ている時ですらも、一秒の休みもなく続けているのです。常人ならば、三日と持たずに発狂するでしょう。
「これは推測だけど、恐らくルカ君の才覚の大半は自分の力を抑えつける為に使われているんだろうね」
折角の才能の大部分を、その能力を制御するために使っている。
迷宮探索や何かの事件の際に見せた怪力すらも、充分に制御された上での安全な、本来の全力からすれば大幅に弱められた状態なのでしょう。
過去の心的外傷に起因する、自分を弱める為だけの才能の使い方。
勿体無いようにも思えますが、そうしなければマトモに暮らすこともできないのです。仕方がありません。
そして、話題は本来の走る速さの話に戻ります。
「なるほどな。走る時って地面を蹴るから」
「地面を蹴り砕かないように、そっと慎重に足を動かしてるんだろう。多分、接地の瞬間に急激に勢いを落としてるのかな? ほとんど無意識レベルでのことだろうけどね。そんなんじゃ、当然フォームも何もあったものじゃないさ」
「な……なるほ、ど……?」
ルグはレンリの話を聞いて得心したようですが、相変わらず肝心のルカ本人はキョトンと小首を傾げています。普段からうっかり物を壊さないように注意しているのはその通りですが、当人はそんなに大層なことをしているつもりはないのです。
ですが、納得云々はさておくとして、当面の問題を解決するヒントは見えてきました。
「とりあえず、フォームとかよりも足元を蹴り壊すことを意識したら速くなるんじゃないか?」
「訓練場を穴だらけにしたら怒られそうだから、練習場所は考えないといけないけどね」
「う、うん……がんばる……!」
意図的に壊そうとすれば壊せないことはないのです。
地面を素早く連続で蹴り砕けば、それが結果的に速く走ることに繋がるかもしれません。
明確な指針を提示されたお陰で、ルカのやる気も出てきたようです。
そして、解決策は一つだけではありません。
「そうそう、ルカ君。明日付き合ってくれるかな?」
「うん……どうした、の?」
「ああ、ちょっと来て欲しい場所があってね」
◆◆◆
心の奥底にある心的外傷が残り続ける限りは、ルカはいつまでも自分を抑え付けたままでしょう。無論、普通に生活をする上で力を制御するのは必要なことですが、だからといって有ると分かっている傷を放っておくべきではありません。
「やあ、終わったかい。気分はどうかな?」
「えと……ちょっとだけ、すっきりした、かも」
「そうかい、それは良かったよ」
翌日、レンリがルカを連れて来たのは病院です。それも精神治療に特化した、精神魔法を使える治癒術師のいる施設でした。ルカはつい先程まで、別室でカウンセリングや魔法を併用した心理療法を受けていたのです。
心の傷や病は目に見えないせいで他者の理解を得られ難いことも多いのですが、肉体の傷と同じくらいかそれ以上に治療は必須。単なる気合や根性論で治るほど甘いものではありません。
ルカに関しては、何しろ特殊な事例なので専門家といえど治療は手探りだったようですし、十年モノの抑圧が一度で消えたりはしませんが、それでも少しだけ気分がすっきりしたようです。
微妙な差ですが、心なしか喋り方もいつもよりハキハキしています。定期的に何度も通えば、更なる改善も期待できるでしょう。
「あの……レンリ、ちゃん」
「ん、なんだい?」
「ルグ君も、だけど……どうして、こんなに、優しくしてくれるの?」
帰り道で、ルカはふと気になったことを聞いてみました。
いくら親切にしてもらっても、それに見合うお返しなんてできません。自己評価がひたすら低いせいもあってか、自分なんかにそこまでする価値があるのだろうかと不思議に思ったのです。
「む……こういうのをハッキリ言葉にするのは結構恥ずかしいんだけどな」
「え……ええと?」
レンリは最初言いよどんでいたのですが、あまりに無垢な視線を前に観念したようです。
「ほら、アレだよ。大事な友達に親切にするなんて当たり前のことだろう! ……いや、やっぱり今の無し! 私のキャラじゃないんだよな、こういうの。照れるから忘れて!」
友達だから親切にする。
当然といえば当然の話です。
もっとも、その当然の事を口に出した照れ臭さで、レンリは顔を赤くして悶えていましたが。
「……忘れない、よ」
一方、その言葉を聞いたルカは、本当に心の底から嬉しかったのでしょう。
「わたしは、絶対に、忘れないから」
暗さなど微塵も感じさせない、花が咲くような満面の笑みを浮かべていました。
◆
Q.トラウマを克服するにはどうしたらいいか?
A.病院に行きなさい
ある意味正攻法
◆このエピソードはこれで一区切り。
次回はあの二人が帰ってきます。