ルカは苦手を克服したい②
速く走れないことに悩んでいるルカは、訓練場でのトレーニングが終わって屋敷に帰ってからも自主的に練習をすることにしました。
今の家には現状では持て余し気味な広い庭があるので、幸い練習場所には困りません。屋敷の周囲は全面高い塀で囲まれているので、人目が気になって集中できないということもないでしょう。
「ルカ姉、何してんの? 一人で駆けっこ?」
『グルル?』
「ちょっと……練習……」
普段、家ではおとなしく過ごしているルカの奇行が気になったのか、散歩を終えて帰ってきたレイルとロノが不思議そうな目で見てきました。まあ、普段家では静かに過ごしている姉が庭を走り回っているのを見れば疑問に思うのも当然です。
「ふぅん、速く走りたいの?」
「う、うん……」
『キュルルル?』
「どうした、の……ロノ……?」
悩みの内容を聞いたロノが何か言いたげに鳴きました。
ルカでは細かいニュアンスまでは読み取れないので、レイルがすかさず翻訳します。
「ふむふむ……『速く走りたいなら手も使って四本足で走ったら?』だってさ」
「えと……ごめん、ね。それだと……多分、遅くなっちゃう……から」
『クゥン……』
首から下がライオンの鷲獅子であれば四つ足で走るのは正しいのでしょう。ですが、二足歩行に向いた人間の体構造だと、残念ながら逆に遅くなってしまいそうです。それに、仮にそれで速く走れたとしても、恥ずかしくてとても人前では見せられません。
ルカは丁重にロノの提案を断りました。
「そうだなー、兄ちゃんに相談してみるのは?」
「……お兄、ちゃん?」
「うん。兄ちゃんって、やたら逃げ足速いじゃん」
「言われて……みれば……たしか、に」
ロノの次にレイルが出したアイデアは、ラックに相談してみることでした。
たしかに、彼は逃げ足に関しては天下一品。ケンカの腕前はからっきしですが、荒事に巻き込まれても大抵は無傷で逃げ延びてきます。
身長こそ高いものの決して肉体派という印象はないのですが、何かしら走りに関してのコツを知っている……かもしれません。
ずっと動き通しで頑張っていましたが、このまま闇雲に続けても問題解決には繋がらないでしょう。ルカは一旦練習を切り上げ、現状打破のヒントを求めてラックに話を聞きにいくことにしました。
◆◆◆
まあ、聞きに行くも何も、ラックはすぐ目と鼻の先の庭木にハンモックを吊って、昼食を食べてからずっと昼寝をしているのですが。暑い日には適度に風が通る木陰でのんびり過ごすのが、ここ最近のお気に入りなのだとか。
少し前までロノを使っての遊覧飛行で一儲けしようと企んで、シモンから預かっているお金を流用して新聞広告まで出したのですが、そこでお上からの「待った」がかかりました。当然といえば当然の流れでしょう。
しかし、騎士団や役所のほうでも前例のない商売を許可すべきかどうかで判断に困り、現在は首都の役人に伺いを立てている状況です。
時々経過報告が届いて、前向きに検討されているようなのですが、実際に商売を始められるのはもう少し先からになりそうでした。知名度だけは先に広まってきており、新聞社宛てに問い合わせも入っているらしいので、実際に事業が始まったら儲けられそうなのが救いでしょうか。
まあ、そんな事情で珍しくやる気を出したのに予定が狂って不貞腐れてしまったラックは、食っちゃ寝の怠惰生活を送っているのです。ルカの相談に乗る時間はいくらでもありました。
「逃げ足のコツっていったらアレだよ。相手の裏をかくことさ!」
「相手の……裏……?」
「そう、裏。『まさか、そこまではしないだろう』って点を突くのがポイントかなぁ」
決して脚力も体力も秀でているワケではないラックが、常に危険から逃げ切れるのは、相手の心理を読んで隙を突いているからです。
その読みは得意のギャンブルにも通じるものがあるのでしょう。
単純な肉体面の性能で劣っていても、心理の読み合いで上回れば勝敗を引っくり返すことは不可能ではありません。それは武術の深奥にも通じるある種の真理なのです……が。
「便所の窓から逃げるのは基本として、食べ物屋の生ゴミの桶に隠れたりとかもいいよぉ。そうそう、使える場所が限られるけど、いざとなったら肥溜めの中に潜ってだねぇ」
「あの……そういうの、は……違う、の」
出てくる逃げ方がどれもこれも汚すぎました。かつての商売柄、危険に巻き込まれやすかったとはいえ、参考例があまりにも酷すぎます。たしかに、これだけ手段を選ばずに逃げ隠れしていたら、走りの速さなど関係なく逃げ切れるでしょうが。
それに、そもそもルカが知りたいのは走力自体を高める方法なのです。
逃げる時に相手の裏をかくという考え方自体は有用なものですが、今回の趣旨からは外れていました。
◆◆◆
「あれ、ルカって小さい頃は走るの速くなかった?」
夕食の席で先程の悩みを話したところ、リンがそんなことを言いました。
それを聞いて一番意外に思ったのはルカ本人です。
「え……お姉ちゃん……それ、本当?」
「ホントよ。ルカが三つか四つくらいの時だったから、覚えてなくてもしょうがないけど」
「ああ、そういえばそうだっけねぇ」
リンの言葉にラックも同意しました。
どうやら記憶違いではなさそうです。当のルカには全く覚えがないのですが。
「あの頃のルカって、どっちかというと元気な子だったのよ。友達も一杯いたし」
「そうなの、ルカ姉?」
「さ、さあ……?」
当時生まれてもいないレイルには知る由もない昔の話。
しかし、ルカ本人すらも当時の話がまるでピンと来ない様子でした。
まるで同姓同名の別人の話をされているような感覚でしょうか。
「あの……その時、の……わたしって、どんなだった……の?」
「そうねぇ、たしか――――」