違和感
思い返してみれば違和感はあったのです。
事件の凶器である『本』を容疑者の手の届く位置に置いたままにしておいて、それを誰が言い出すともなく自然と見逃す空気になっていた?
そんな「自然」など、どう考えてもまともではありません。
ですが、その違和感を異常として認識できなかった。
危険性を正しく認識できなかった。
いいえ、認識できなく“させられていた”としたら?
禁書に関する欺瞞情報はなんだったか。
そう、本質的な危険性とは比べ物にもならない、他者に無条件で「なんとなく」程度の好意を抱かせる、少し過激な恋のおまじない程度の――――。
「……おいっ、大丈夫か!?」
シモンの思考は、モトレドの身体が床に倒れる音で中断を余儀なくさせられました。
「がっ……ぁ……なん……俺……?」
吐血の量は医者ならぬ素人目にも異常だと分かりました。
まるで、血液を満たしたバケツを勢いよく床にブチ撒けたような、と言えばその異常性が幾らか想像できるでしょうか。すぐ近くで話していたシモンやラック、周囲を囲んでいた兵の服にまで血の飛沫が飛び赤く染まったほどです。
目を離した一瞬で何か怪我をしたとか、元々喀血を伴う持病があったとか、そういう次元でないのは明らかです。この出血量からすると、体内の重要な臓器がいくつも破裂しているのでしょう。即死しなかったのが奇跡みたいなものです。
「……ゃ……く、ない……」
「喋るな! 誰か医者を! それと、ウルよ聞こえるか!? すぐにライムを呼んでくれ!」
「は……はっ、直ちに!」
『…………っ!?』
放心していた兵や室内に潜んでいた虫型のウルも、シモンの指示を受けて我に返り、大慌てで動き出そうとしましたが。
「いや……もう死んでる」
ラックの声が彼らを引き止めました。
いくらライムでも死者を蘇らせることはできません。
モトレドが倒れた時点で、もう既に手遅れだったのです。
『いやだ、死にたくない』
それが身勝手な動機で大勢を苦しめた、愚かな男の最期の言葉でした。
◆◆◆
「なんで……何故だっ!?」
しかし、この場の誰一人としてシモンの疑問に答えることはできません。
誰が見ても、倒れる直前までモトレドは完全に白旗を挙げていました。なにしろ、下手に反抗的な態度を取ったら死の呪いが発動しかねないのですから疑う余地はありません。
「呪い、ねぇ。あれ? ちょっと、コレ見てよ」
「これは……本のページか?」
船内が薄暗い上に大量の血で染まって見えにくかったのですが、ラックが数枚の紙片が床に落ちているのに気が付きました。シモンが拾い上げ、ランプの灯りにかざして確認するに、どうやらモトレドが後生大事に抱えていた本の一部を破り捨てたモノのようです。
「自殺、なのか?」
『不破の契約書』には、敗者が自分の所有する本を相手に譲渡するという条項がありました。
もし、譲り渡す前に肝心の品物が破損したならば、契約不履行と見做されて呪いが発動する可能性は確かに少なくありません。
周囲を武装した兵隊に囲まれ、自分自身は徒手空拳の身であったとしても、隙を見て本を破壊すればあるいは自殺に成功するかもしれない。どうせ生き延びても、この先に待つのは死罪か終身刑か。将来を悲観し、一か八かにかけて自害を試みた……というのは、理屈の上ではありえない筋書きではないでしょう。
「いや、だが……」
「演技って感じじゃなかったよねぇ」
ですが、短い時間でしたがシモン達が実際に話した印象では、とても自殺など考えているようには見えませんでした。それすらも隙を生むための演技だった可能性はありますが、倒れた瞬間以降の様子を見るに、モトレド自身も状況に疑問を抱いていたフシがありました。
「うん?」
その時、ラックの視線が紫色の本を捉えました。
モトレドが倒れた時点では表紙に指の痕が付くほど強く握り締められていましたが、死に際に意識が朦朧として手放してしまったのでしょう。
ラックは何気なく拾い上げようとソレに手を触れ……、
「うわっ!? え……な、なんてこった」
そして、一足先に事態の真相を知ることになったのです。