ゲームオーバー
人が何かしらの精神的ショックを受けて正気を失った場合、治療には数年から数十年、あるいは生涯に渡って元の人格を取り戻せないことも珍しくはありません。
「……ぁ……ぅ……ぐ、ここは?」
「おっ、気が付いたみたいだよ」
「やれやれ、面倒をかけさせおって」
ですが、今回に限っては僅か一晩で正気を取り戻すことが出来たようです。
もっとも、それがモトレドにとって幸運であるとは限りませんが。
なにしろ、会話にこそ加わっていませんがモトレドの周囲を武装した兵が油断なく囲んでおり、ネズミ一匹逃げ出せない状況です。
「何があったか覚えているか?」
「最後にサイを投げた後は記憶がはっきりしないが……そうか、俺は負けたのか……」
シモンの問いに対する受け答えも明瞭で、正常な思考能力を取り戻しているのがはっきりと窺えます。元々、善悪を抜きにすれば聡明と評して過言ではない人物なのです。ゲーム後半の記憶に関してはやや曖昧な部分もあるようですが、状況から自分の敗北を察して受け入れられる程度の冷静さもありました。
「……で、なんでまだ牢獄の中じゃないんだ?」
「何故も何も、貴様が勝負の途中で勝手に正気を失ってしまったからだ」
問題の十六巡目を終えた時点では、まだ日付が変わって一時間も経っていない深夜でしたが、現在は既に朝日が昇り始める早朝です。
それにも関わらず、未だに彼らがいるのは勝負をしていた船室内。
当然、もっと早くにモトレドの身柄を騎士団本部まで移送しようかという話も出たのですが、迂闊に手を出せない理由がありました。
「おかげでまた徹夜だ。眠くて敵わん」
「あの契約書ってのが、どのくらい融通が利くものなのか分からなかったからさ。結局、時間切れまでこの部屋から出ることも出来なかったもんねぇ」
問題となったのは『不破の契約書』の存在です。
十六巡目を終えた時点で事実上ラック側の勝利だったとはいえ、モトレド側が僅かにでもチップを残している以上、ルール上ではまだ勝負の途中という扱い。
決着はどちらかのプレイヤーが相手のチップを一枚残らず奪うか、あるいは設定した刻限までにより多くのチップを稼いだかで決まります。
もし、途中で離席したりモトレドの身柄を拘束したりすれば、勝負の放棄や進行を妨げる妨害行為と判定される可能性があることに途中でシモンが気付いたのです。
単なる杞憂という可能性もありましたが、まさか実験してみるワケにもいきません。
ルール違反が即ラックやシモンの死に繋がりかねない以上は慎重にならざるを得ませんでした。ここまで来てそんな形での逆転負けなどシャレになりません。
仕方なくゲームが終了したと確信できる夜明けまでそのまま船室内で待機し、そしてつい先程、ようやく呪いの心配から解放されたというワケです。
後から船で追いついてきた騎士団の面々に船内の物資の押収や、操られていた乗組員の保護と移送、放っておくと船が氷に乗り上げる事故が多発しそうな河上の警備などを指示していたので、実際にはそこまで退屈していたワケではありませんが。
ちなみにライムやレンリ達といった民間協力者は、遠隔での連絡役を引き受けたウルの何体かを除いて既に学都に引き上げています。今頃はぐっすり眠っていることでしょう。
「正気を……じゃあ、俺が今マトモに戻ってるのは?」
「ああ、その契約書の呪いが貴様の魂を無理矢理動かしている状態であろう。敗者の義務を履行させる為にな」
途中で中断されていたゲームは、制限時間を迎えることで終了しました。
それは即ち、敗者には契約書の呪いが既に降りかかっていることを意味します。
「一応言っておくが逃げようとするのは得策ではないぞ。見て分かる通り、この船の周囲は騎士団が完全に包囲している。まあ、そもそも契約破りがどうなるかは今更言うまでもあるまい? いや、そもそも拒否した場合は再び正気を失うのかもしれぬが」
契約を破れば問答無用の死が待つばかり。
それを抜きにしても、呪いによってかろうじて正気の淵に立ち返っているだけの現状では、呪いそのものをどうにか誤魔化せたとしても、待っているのは再び狂気に陥る未来のみ。
付け加えるならば、夏場とはいえ一晩程度では凍りついた河は溶けなかったので船は動かせませんし、そもそも急な凍結によってこの船の外輪を動かす機関部が故障してしまったらしく、物理的な意味でも逃走は不可能です。
そんなシモンの警告を聞いたモトレドの返答は、非常に賢明なものでした。
「おっと、変なマネはしねぇよ……『我が鎖、我が戒めを破却する』……っと、これで操ってた連中は全員解放されたはずだ」
押収した船内の他の物資と違い、契約書に明記された賭け草だった『本』は、キチンと手順に則って譲渡されないと事故の危険性があった為に、モトレドの懐に入ったままでした。
事件の核心とも言える危険物を取り出したことで、周囲の兵達はにわかに殺気立ちましたが本当に抵抗の意思はなさそうです。
本を手にしたのは単に術の解除に必要だったからなのでしょう。
これまでの執念からすれば意外なほどあっさりと、操っている人々を呪縛から解放しました。
「そうか。おい、誰か外に出て本部に確認を」
「はっ、了解しました」
シモンの指示を受けた若い兵が、確認のため船室から退出しました。
本部との連絡といってもウルに聞くだけなら別に甲板に出る必要はないのですが、もはや勝負は終わったとはいえウルの存在をモトレドに教えたくはなかったのです。
もっとも、モトレドの意識は卓上に置かれた本に向いており、例によって何やらブツブツと呟いていました。どうやら本に向けて謝罪や別れの挨拶を告げているようで、この調子なら連絡方法の特殊性に気付かれる心配はなさそうです。
一応は事件の凶器である本にそのまま触れさせておくのは問題がありそうなものですが、一冊だけだと複雑な手順を踏まねば他者を操ることはできませんし、単純に気味が悪くてその話題に触れたくないという思いもあったのでしょう。
皆、この状況に疑問がなくもなかったのですが、凶器として使うことができないならば、護送の準備が整うまではこのまま好きにさせても構わないかと、誰が言い出すともなく自然とそういう雰囲気になっていました。
「今頃護送用の船もこちらに向かっているはずだ。正式な取調べはまた後で別にするが、その間にいくつか確認をさせてもらおう」
「ああ、いいぜ。どうせ、もう口を閉じる自由もないんだ」
勝負に敗れた場合、知っていることを隠さず、嘘偽りなく答えること。
そういう内容の呪いに縛られている以上、もはや嘘を吐くことはできません。
「だけど、その前に俺から質問いいか? なぁ、そっちのニイさん」
「うん、僕かい?」
「ああ、アンタとはもう会うことはないだろうが、最後に一つ聞かせてくれ」
……が、その前に。
モトレドは、退屈そうに座っていたラックに一つだけ質問をしました。
そもそも騎士団の所属ではない臨時の協力者に過ぎないラックとは、ここで別れたらもう生涯顔を合わせる機会はないでしょう。
それが分かって情けをかけているのか、シモンも止めようとはしませんでした。
「俺は、どうして勝てなかったと思う?」
その質問にはどのような想いが込められていたのでしょうか。
例え答えが得られたとしても、最早それにさしたる意味はありません。
なにしろ、これから厳重に拘束され裁きを受ける身では、その答えを活かす場など二度と訪れないのですから。
「俺は、いつも肝心なところで勝てないんだ……どうしてだろうな?」
「それは……」
「ああ、そりゃ簡単さ」
口を開きかけたシモンを視線で制し、ラックが答えました。別に教えてやる義理などないのですが、彼も一人の賭博師として何か思うところがあったのかもしれません。
モトレドの敗因として挙げられる要素はいくつもあります。
ライムやウルといった規格外の助っ人の存在や、想定以上だったラックの技量。
一人だけ安全圏にいたつもりだった事による覚悟の欠如。
単純に運の多寡もあるでしょう。実際、ウルが他の船の接近に気付くのがあと少し遅れていたら、モトレドの目論見通りにラック側が大敗していたはずなのです。
ですが、ここでラックが敗因として挙げたのは、それら以前の、もっと根本的な心構えの部分でした。
「だって、全然ゲームを楽しんでないんだもん。そんなんじゃ何回やっても勝てるわけないさ」
敗因は「遊び」に徹しようとしなかった事。
ゲームを、目的達成の手段としてしか考えていなかった事。
勝って得るモノにばかり意識が向いて、ゲーム自体から目が逸れていた。
小手先の技で勝てる格下相手ならばまだしも、同等以上の強敵と極限の状況で競い合うならば、それは決定的な差になり得てしまう。ラックは敗者に対し、そんな風に告げました。
「……そんな風に見えてたか?」
「ああ、顔は笑ってても全然楽しそうじゃなかったね」
「そうか。ああ、そういえば……」
思い出すのは、子供の頃、故郷で親兄弟や友達と遊んでいた記憶。
最初は、ただ楽しかった。
それだけで良かった。
だけれど、いつしか手段と目的が入れ替わり、勝負に向き合う純粋さは損なわれていた。
そう、本人が弱点だとばかり思い込み戒めようとしていた「遊び」に寄ってしまう気性こそが、実は真の強者へと至る兆しであったのだと、全てが終わってからやっと……。
「やれやれ、気付くのが遅すぎたな」
肩を竦めるモトレドの表情は、言葉とは裏腹にどこか晴れやかなものが滲んでいました。
◆◆◆
「この後、俺はどうなる?」
「数日以内に首都に移送され裁判にかけられるはずだ」
「ま、そんなところだろうな。あとは精々従順に振舞って牢屋の中で少しでも長生きするさ」
「長生き、か」
シモンの見立てでは、モトレドに下される判決は恐らく死刑。
大量殺人未遂に魔法の悪用による他者の人格剥奪。他にも当局が把握していない余罪も数多くあるでしょうし、何より今の彼には隠し事が一切出来ません。旧スコルピオ時代やその後の潜伏中の細々とした犯罪も含めれば、罪状の数は少なく見積もっても三桁に達するのは確実です。
「なぁに、タレこめる情報なら腐るほどある。後ろ暗い連中を片っ端から売れば、運が良ければ死刑が終身刑くらいにはなるかもしれないだろ?」
貴重な情報源としての価値を示せれば、本人の言うように多少の減刑を望める可能性もありますが、それについては今後の交渉次第でしょうか。海千山千の悪党としての生き汚さを存分に発揮できれば、娑婆には出れずとも檻の中で平和に暮らせるかもしれません。
「……貴様のやったことは許せぬが、幸い此度の事件ではこの街で死者は出なかった。減刑の確約は出来ぬが、可能であれば長く生き、時間をかけて己の罪を償って欲しい」
「くくっ、お優しいことで」
どうも、シモンはモトレドが生き延びることを言葉通りに心底望んでいるようです。
こればかりはラックや周囲の兵達もモトレドと同意見。いくらなんでも甘過ぎると感じ内心呆れていましたが、それも含めてシモンの人徳なのでしょう。
と、ここで地上の本部と連絡を取っていた兵が船室に戻ってきました。
「団長、確認取れました! 保護している被害者は全員正気を取り戻しているとのことです」
「そうか、それは重畳だ」
「護送の船も間もなくこちらに到着します」
操作されていた人々は無事に術の呪縛から解放されていたようです。
契約破りのリスクを冒してまで約束を反故にするとは今更誰も考えていませんでしたが、実際に安全確認が取れたことで船内の空気も幾分緩みました。
諸々の後始末は残っていますが、これで事件は無事解決。
ようやく平穏な日々が戻ってくるのだと、皆がそう確信した瞬間、
「え……? 俺、なん……で……」
ごぽり、という湿った音が響き、大量の血を吐いたモトレドが床に崩れ落ちました。
その手には、毒々しい紫色の本が握られており――――。




