本の声
本自身にその真の能力を教えられた。
モトレドの言葉を信じるならば二冊の本には、少なくとも『転心の章』には独立した自我があるということになります。
「確かに意思を持つ器物は存在する」
「へぇ、魔法の道具ってすごいねぇ」
世の中には、決して数は多くないものの意思を持つ器物は存在します。
シモンも実際に意思を持つ武器と言葉を交わした経験がありますし、これらの本に自我がある可能性も荒唐無稽と切って捨てることは出来ません。
「コレがそうだと?」
「ああ、コイツとソイツだ。ちなみに直接身体の一部が触れてないと声は聞こえない。俺も初めて声が聞こえた時は驚いたぜ」
しかし、この二冊の真偽については疑問が残るのも確かです。
騎士団本部で保管している時は、呪物を封印する為の銀製の鎖で厳重に縛り上げていたのでともかくとして、今は封印を解いてシモンが懐にしまっているのですが……、
「……何も聞こえぬが」
現在シモン側が所持している『回心の章』も、モトレドが持っている『転心の章』からも、発声やそれ以外の意思表示らしい変化は何一つありません。言う通りに直接素手で触れても、少なくともシモンには何も聞こえませんでした。
それにシモンの前に、そうと知らずに本を確保していたレンリやウル、その前の持ち主だった数問い札の屋台店主も「本の声」のことなど誰一人として気が付いていませんでした。そんな明確な異変があれば、彼女達にそんな情報を隠す理由はないはずです。
「誰にでも声が聞こえるわけじゃない。相性が大事なんだ」
「…………」
「どうも、アンタは嫌われてるみたいだがな。堅物すぎて好みじゃないとよ」
現状、本に意思があると主張しているのはモトレド一人のみ。
これでは彼が真実を話しているのか、それとも虚言を弄して情報源を隠しているのか、あるいは狂気が生み出した妄想なのか判別することはできません。
「ただの妄想だと思うか?」
シモンの疑念を見透かしたように、モトレドは大仰な仕草で天を仰ぎました。
「俺は、コイツに選ばれた」
陶然とした表情を見ると、とても適当な偽りを口にしているようには思えません。
本に向ける視線も、便利な道具に対するものではなく、まるで崇敬する姫君を想う貴公子の如き熱情が込められていました。
「もうすぐだ。もう少しだけ待っていてくれ……ああ、俺も愛してるぜ……!」
本に向け熱く語りかける姿は異様にして狂気的。
目の前にいるシモンやラックのことも忘れてしまったかのようです。
とても演技をしている風には見えません。
「き、狂人め……」
「おぉっと、こりゃとんでもない変態がいたもんだねぇ」
モトレドがまともではない事は最初から分かっていましたが、狂気の方向性が予想していたのとあまりに違っていたせいで、シモンも少々気圧されている様子です。言い方を変えると、本に恋する変態を目の当たりにして完全にドン引きしていました。
実際に勝負を担当するラックが大して気にしていないのは幸いでしたが。
「でもさ、本が喋るとか喋らないとか、別にそんなのどっちでもいいんじゃない?」
「う、うむ? ……い、いや、どっちでもよくはないぞ!」
本の真価についての情報源が本自身であれば、シモンが想定していた類の面倒事はなくなりますが、その確証がない現状では素直に信じるわけにもいきません。相性のいい人物にしか声が聞こえないという話も、演技を信用させるためにデッチ上げた設定という可能性があります。
これが演技なら役者にでもなったほうが良いと断言できるほど真に迫っていますが、何しろ相手は第一級の嘘吐き。確証がない以上、無闇に否定はできません。
「いいのいいの。要は勝てばいいんだしさぁ。なんなら、その契約書に負けた時に全部正直に話すって条件も加えておけばいいんじゃない?」
「まあ、それなら確証になり得るが……」
「俺は構わないぜ。負けてやる気はないけどな」
このまま会話を続けても、本当か嘘か判別するのはまず無理。
結局は勝負を始める前に『不破の契約書』に条項を足すことで、ひとまずこの問題は棚上げされました。契約者の魂を縛って行動を強制し、不履行には死を以て罰とする呪物。決して望んで使いたい道具ではありませんが、こういう場合には有効です。
「さて、聞きたいことはもうないか?」
「“今は”な。他のことについては、貴様を牢の中に入れてからゆっくり聞かせて貰うとしよう。そっちこそ時間稼ぎはもういいのか?」
「ああ、おかげさんでな」
話している最中にも船は河を進み、濃い霧の中に完全に隠れています。
陸上からは視界が遮られて視認は不可能。
急いで別の船を用意しても水上を追いかけるのは困難な状況です。
鷲獅子に乗って空を飛びでもしたら速度面では追いつくことも可能ですが、上空からでも濃い霧が邪魔になるのは同じ事。
高空からでは視認は出来ませんし、かといって不用意に高度を下げると水面に激突する可能性があります。ほとんど音も立てずに進む船を捕捉するのは非常に困難なはずでした。
「待たせたな。そろそろ勝負を始めよう」
包囲や追跡を避けたいモトレドからすれば万全の態勢。これならば邪魔者を気にせずに勝負に集中することが出来る……と、そう思いこんでいました。
◆◆◆
モトレドはこの時点で全く気が付いていませんでした。
落ち度とまでは言えないでしょう。
いくら悪知恵が働こうとも、思考の前提となる情報を知らなければ辿り付けない答え、あるいは知っていたとしても根本的に対処不可能な物事はあるものです。
シモンとラックの服のポケットや髪の毛の隙間に潜む小さい虫や、船室外の甲板の影に潜むフクロウやコウモリ、水中から船を追いかける無数の魚影。
ウルが姿を変じた百を超える生物が船の内外から、その行方を完全に捉えていたのです。
体調を崩して更新がちょっと遅れてしまいました。今年の夏は急に暑くなったり冷え込んだりするので、皆様も体調管理にはお気を付け下さい。




