人類アイ
人類に救う価値があるか。
その問いに対し、彼女は迷わず声を上げた……ように見えました。
そもそも疑問に対する返答なのかどうかという部分に疑問の余地はありますが。
『あい!』
「あ、あれ……アイちゃん、いつの間に……!?」
第七迷宮、アイ。
先程までルカが近くで見ていたのですが、あれこれ異常事態が起きすぎて気が逸れた隙にハイハイで移動したのでしょう。皆が気付いた時には恐るべきラメンティアのすぐ間近にまで迫っていました。
『これこれ、アイよ。今は難しい話をしているのでな、あっちで大人しく遊んでいるがよい』
『やー! やぁの!』
『嫌だと言われてもな……ううむ、どうしたものか』
意外にと言うべきか、ラメンティアが積極的にアイに危害を加える様子がありません。
余人には理解しがたい部分も多々あるとはいえ、悪には悪の美学があるのか赤ん坊を直接的に害するような真似は気が引けるのでしょうか。
魔王を脅迫した際の文言だとか、あとは今現在における配下の魔物の暴れっぷりからするに、いくらか気が進まない程度の抵抗感であって決して気を緩めていいわけではないのでしょうが。
『こらっ、アイ! 悪の服を掴んでよじ登るな! 髪を食べるな、引っ張るな!』
『やー!』
相手が対応に困っていてもお構いなし。
アイは小さな手でドレスの布地を掴んで長身のラメンティアによじ登り、更には髪の毛を引っ張ったり口に入れたりと大変な暴れぶりを見せていました。たまに機嫌が悪いと泣くこともあるとはいえ、赤ん坊基準では落ち着きのあるアイにしてはとても珍しいことです。
もちろん、その程度では限りなく不死身に近いラメンティアにダメージなどありません。髪の毛を思い切り引っ張られたところで痛みすら感じませんが、鬱陶しさや不快感となるとまた別なのか。
『みんな、いいこ!』
『ん、皆とは人類共のことか? もしや、連中を弁護しているつもりなのか?』
『あいっ! いじめちゃ、めっ』
『虐めているというか、悪的には一皮剥けさせるための試練を与えているつもりでだな……』
『だぅ?』
『いや、これは分からんのかい! いったい、どこまで話が通じておるのかおらんのか。単に悪が深読みしすぎて空回りしてるだけってことはなかろうな?』
なにしろ赤ちゃん相手なわけですから、話らしい話を成立させるにも一苦労。いっそ、アイのことは無視して他の面々を相手に元の話題に戻る手もありましたが……。
『あー……だう?』
『まったく、遠慮なく髪にヨダレをべたべた付けおって。やれやれ、このままでは話にならん』
ラメンティアは自分にしがみついていたアイを力づくで引きはがすと、そのまま片手で足首を持って逆さ吊りに。そして反対の手の人差し指をピンと伸ばすと……。
『なので、仕方ない。話が通じるようにしてやろう』
『あぃ?』
ルカ達の悲鳴が聞こえましたが、もちろん気にするはずもなく。
刃物のように鋭い指先が、アイのお腹の真ん中にズブリと突き刺さりました。
◆◆◆
その変化は誰の目にも明らかでした。
『だぅ? あー……え? あ、あれ、我なんで?』
小さな赤ん坊サイズだったアイの身体が風船のようにぷっくり膨れたと思ったら、姉妹達と同じくらいの少女態へと変貌を遂げたのです。
第七迷宮、アイ。
彼女が生まれた時と同じ、まだ赤ん坊になる前と同じ姿へと。
『くかかっ、状況は認識しておるかアイよ? もし認識していなかったら今に至るまでの過程を全部説明せねばならないのがすごく面倒くさいので勘弁して欲しい悪なのであった』
『ええと、その……まだちょっと混乱してるけど確認させてね。まず我はアイ。七番目の迷宮で今は神様。それとあっちにいるのがママ……じゃなくて、ルカさんやレンリさん達に、それと貴女がラメンティアさんで合ってるかしら?』
『うむ、その調子なら多分大丈夫であろう。ちなみに聞かれる前に答えるが、今のそなたの状態はだな、悪が力の三割くらいを注ぎ込んで駄目元で一気に成長させてみた感じだな。ぶっちゃけ、その場の勢いで大盤振る舞いしすぎた感もある』
『駄目元だったんだ……』
成長して普通に喋れるようになったアイは急成長に伴う混乱はあるものの、記憶に関しては“概ね”以前の状態からの連続性を保っているようです。おかげで説明の手間が大幅に省けたのは幸いでした。
ちなみに“概ね”の例外が何かというと。
「わ、わぁ……おっきいアイちゃんて、こんな感じなんだ」
『あ、うん、こんな感じのアイです。はじめまして、って言うのも変かもだけど。ルカさんには赤ん坊の我がいつもお世話になっております』
「こ、これはどうも……ご丁寧に……立派になったねぇ」
本当は別の意味でも「はじめまして」ではないのですが、ルカにもアイにも以前に暴走して混ざり合った迷宮に呑み込まれた時の記憶はまったくありません。
アイ自身にも抑えが利かなかった『夢現』の発動を、いつの間にか抑制できるようになっていたりなど、無意識下での影響は完全にゼロというわけではないのかもしれませんけれど。
『これこれ、そこの二人。母子のほのぼの触れ合いコーナーは後にせよ。悪がこやつを成長させてやったのは、別に成長した我が子との会話でルカの気分をほっこりさせてやるためではないのだ』
目的は、アイとの意思疎通が成立できる状態にして話を聞くこと。
主義主張の如何によっては、その後の論破までもが含まれるでしょうか。
とはいえ、少女態への成長によって言語能力のみならず思考形態にも多少なりとも変化は生じているでしょう。果たして、現在のアイがどのような意見を述べるのか。
『あ、はい、それじゃあ。さっきまで赤ちゃんだった時に比べたら色々考えるようになって、ラメンティアさんの主張にも一理あるような気もしてきたんだけど』
『うむうむ、やはり人類には気合を入れてやるべきなのだ。なかなか分かっておるではないか』
『でもね、その精神面の逞しさ? 自分達で問題をなんとかしようって自立心? そういうのは確かに大事だけど、それが今の時点でちょっと足りないから全部滅びても仕方ないとかは極論すぎ。誰だって赤ちゃんの時は一人じゃ何もできないけど、それでも周りの人に守られながら少しずつ出来ることを増やして大きくなっていくものでしょう?』
流石は赤ん坊のプロ。
ついさっきまでそうだっただけあって言葉に実感がこもっています。
『今はまだダメな部分があっても、明日には克服してるかもしれない。明日出来ないことがあっても、明後日には出来るようになってるかもしれない。その可能性は誰にだって、たとえ神様にだって否定できないし否定すべきじゃない。我は、そんな人間の皆が好きよ』
今の人類には不出来な部分がある。
これについてはアイもラメンティアも共に認めるところです。
けれども、その不出来を単なる欠点と切り捨てるか。
それとも、いずれ克服し得る可能性として不出来も含めて愛するか。
その部分に決定的な意見の相違がありました。
『たしかに過保護は困りものっていうか、ついつい心配で構いすぎちゃうのは改めたほうがいいだろうけど。それは神様とか強すぎる人達の課題ね。それについても人間の皆と同じように、ちょっとずつ克服していけば大丈夫だと思うし』
『つまり、アイよ。そなたも結局は悪と敵対するということだな。くかかっ、こうなるだろうと思ってはいたが……よもや、勝ち目があるなどとは思うまいな? いくらか力を分けてやったとはいえ、まだまだ差は大きいぞ?』
『うん、それは無理。我、ケンカは苦手だし』
こうして意見の決裂が明らかになったわけですが、問題はここから先。
いくら成長して大きくなったとはいえ、アイだけで勝てる相手ではないでしょう。
一柱では敵わない。
一柱では、願いは叶わない。
でも、皆とならどうだろう?
神だけでも、人だけでもかなわない。
しかし、神と人とが肩を並べて共に立ち向かったのならばどうだろう。
一方的に導くのではなく、一方的に縋るのではなく。
どちらもが共に支え合い、同じ道を歩み出したのならば、あるいは――――。
『皆の夢は何かしら? 我は、皆の夢を叶えるわ』
そして、夢と現は混ざり合う。