水槽の中の魚
精々、十五分か二十分そこそこ。
まだ三十分には届いていないでしょう。
雨の魔物が世界中で暴れ始めてから少し経ち、このあたりになってくると人類の中でも特に知勇に優れた者達には怪物の性質が僅かに読み解けてきたようです。
まず、このバケモノは人を食うために襲っているのではない。
手近に人間がいたら容赦なくガブリと噛みついてくるものの、噛み千切った肉を飲み下すわけでもなく吐き捨てるのみ。魔物の見た目はドラゴンやライオンなど肉食獣に近いモノ以外にも、草食獣や植物、無機物を模したらしき姿まで様々ですが、この点に例外はなさそうです。
恐らくは活動に必要なエネルギーは創造主たるラメンティアの魔力なり神力なりで補われていて、そもそも生存のための栄養補給を必要としないのでしょう。
把握できた点は他にもあります。
その中でも特に奇妙に思えるのが極端に気紛れな気質でしょうか。
雨の怪物は基本的に近くにいる人間を発見次第に襲い掛かってはくるのですが、どういうわけか戦意に酷く大きな波がある様子。具体的には、体当たりなどで人間を地面に押し倒してあとは頭や首を踏みつければ確実に殺せるという状況で、何故だか興味を失くしたようにそっぽを向いて離れていく。
かと思えば、急に恐ろしい残虐性を発揮して、襲われた誰かの胴を力任せに二つに引き裂いたりすることも。どこの人里でもそこかしこに血しぶきが舞い、悲鳴が止まる暇もありません。
この不可思議な緩急の理由に説明を付けるとしたら、考えられるのはあえて一気に殺さないことで被害者をじわじわ嬲っている。怯え苦しむ様を見て愉しむために弄んでいる……というのが真っ先に思いつきそうな理由ではあるのですけれど。
『……はぁ、つまらん。お前らリアクションがワンパターンすぎるだろう。もうちょい面白い反応を見せんか。ああ、そこの女神。ワンチャン悪と心中しようと試しに自害してみようとか考えるなよ? 神力が妙な動きを見せた瞬間にグーで星をカチ割ってやるからな』
当のラメンティアはといえば、この通り。世界各地の状況を空に映し出して眺めてはいるものの、内心の不機嫌や退屈を隠そうともしていません。
そもそも本当に人類を滅ぼしたいなら、こんな手間をかけるまでもありません。
迷宮達の力を受け継いだ上で更なるパワーアップを経た彼女なら、強めに地面を殴ればそれで終了。この惑星は木っ端微塵に砕け散り、宇宙の藻屑と消えるでしょう。
それ以前に彼女の目的が人類の滅亡ではないというのは、先程本人も言っていました。その発言の信憑性に疑わしい面もありますし、また結果的に滅びてしまっても仕方ない云々と怖いことも言っていましたが。
「誰かっ、誰か助けてくれ!」
「神よ、どうか我々をお救いください」
「こんな時に勇者様がいてくれたら……」
あちこちの土地からこんな声も届いています。理不尽な災難に見舞われたか弱き人々が口にする言葉としては、特段おかしな部分があるようにも思えませんが……。
『ああ、つまらんつまらん! 何度も何度も、どこもかしこも、どいつもこいつも同じようなことばかり抜かしおって……』
人々の救いを求める声が気に食わないのでしょうか。
戦う力や傷を癒す技術があるならまだしも、人類の大半を占める無力な人々に今できることなど、それこそ自分以外の誰かに助けを乞うくらい。その声が届いて実際に救いの手が差し伸べられるかどうかはさておいて、普通の感覚ならそうした声を上げること自体を非難される謂れまではないでしょう。
『まるで水槽で飼われる魚だな。上を向いて間抜けヅラで口をパクパク開けていれば、餌を恵んでもらえると信じて疑わぬ』
が、ラメンティアにとってはそれが許しがたい惰弱と感じられるのか。
『女神よ、こいつらがこうなったのは貴様の責任だぞ? 人類愛は大いに結構だが、過保護も過ぎれば毒にしかならん。本来こやつらが自分で乗り越えるべき試練、災害やら疫病やら、魔界の侵略やらもだ。ちょっと困っているのを見たら世話を焼かずにはいられない。そうして甘やかされ過ぎて、遺伝子や魂の髄まですっかり骨抜きにされてしまったのがこいつらだ。実に憐れだと思わんか?』
一理ある、のかもしれません。
少なくとも、女神には即座に反論することはできませんでした。
『更に勇者に魔王に幼神にと甘い保護者は増える一方だ。しかも守る側も守られる側も、それが当然とばかり思って誰も疑問を抱くことすらせぬ。こんなことでは、ますます腑抜けるだけだろう』
絶対的な強者に守られているという安心感。
それがあるから人々が不安なく人生を謳歌できるとはいえ、過剰なまでに守られている状況は危機感や緊張感の欠如に繋がるのではないか。こういった発想は、強者側である勇者や魔王や迷宮達からはどうしても出てきにくいものでしょう。
生粋の悪ゆえの、いざとなれば人類を滅ぼすことも本気で視野に入れているからこそ出てきた問題意識というわけです。
『そして、だ。そんなお優しい連中が、今度は今よりもっと安楽が約束された新時代を恵んで下さるらしい。はっ、それはそれは幸福な世界が訪れるのだろうよ。すっかり甘え慣れた人類なら、ロクに疑問を抱くこともなく与えられた幸福に飛びつくだろうさ』
迷宮達が正式に新たな神々として世界に君臨し、更には地球をはじめとした異世界との交流も開始される。新しく創造された天国や地獄と合わせれば、生前のみならず死後までも絶対的な幸せが約束された人間にとって理想の世界が訪れることでしょう。
しかし、今のままそんな時代を迎えることが本当に正しいのか。
『あまりに甘やかされすぎて、すっかり牙が抜けてしまった愛玩動物だな。安全な場所で飼われることでしか生きられん。そういう風にされてしまった哀れな生き物だ……くそっ、腹が立ちすぎて熱くなったか。ついつい答えをほとんど言ってしまったな』
先程ラメンティアが口にした『試練』という言葉。
今のこの全人類が雨の怪物に襲われつつある状況は、その牙を取り戻させるためのものだったのでしょう。楽には殺さず、じわじわ嬲るような痛めつけ方をしているのも同じく。
いざとなれば誰かが助けてくれるという甘えを捨て、真に自分の力で生き抜いていく気概を人々の心に呼び起こさせる為の。だとしても、いくらなんでも苛烈すぎる方法ではありますが。
『そんな情けない連中に、本当に救うべき価値などあると思うのか?』
もちろん、ある。
ある……けれども、戦闘中にどこかに吹っ飛ばされた面々を除く今この場にいる神々、女神もゴゴもヨミもネムですらも、不覚にも即答することができませんでした。自分達の過剰なまでの気遣いが人類の精神を毒していたという話に、多少なりとも思うところがあったのかもしれません。
人々をどうにかして救うにせよ、今後の付き合い方や距離感を全面的に見直すべきではないか。これまでの神とヒトとの関係性は誤っていたのではないか。これからどうやって向き合えばいいのだろうか……というように。
故に、ここまでの話を聞いてもなお一切揺るがなかったのは彼女だけ。
神々の中でも最も無垢な彼女だけは、依然として微塵も迷うことなく問いへの答えを、人類への絶対的な肯定を――、
『あい!』
尽きることなき人類愛を、声も高らかに謳い上げたのです。