神の涙
界港上空に浮遊する大きな血玉。
血の表面がポコポコと泡立ち続け、異形の怪物が絶え間なく生まれ続けておりました。
その勢いは時間が経って衰えるどころか勢いを増す一方。
いちいち数えてなどいられませんし、恐らくは能力を行使しているラメンティア自身も正確なところは把握できていないのでしょうが、どんなに少なく見ても毎秒千体を超える数が生まれていると考えてまず間違いないはずです。
戦闘が本格的に始まってから早数分。
大雑把に試算しても発生したバケモノの総数は今や数十万の大台に乗るでしょう。
ならば、異形の軍勢が目隠し布で仕切られた界港の敷地内に収まるはずもなく、学都の街や近隣の町村までもが大量発生した怪物の勢いに呑み込まれて然るべき……。
『かかっ、大したものだ。そら、おかわりをくれてやろう』
が、しかし。
実際の怪物達は、未だに界港の敷地から出ること叶わず。こうしている今も凄まじい勢いで生み出されてはいるものの、その多くは上空から地面に落ちてくるより前の数秒間でその短い命を終えるのみ。
異形の首魁にして創造主たるラメンティアは、そうした事態に焦るでも怒るでもなく、ただただ愉快そうに眺めるばかりです。
『あっはっは! ようやく分かりやすい展開になって助かるの!』
「ん!」
上空の血塊から生み出されるバケモノが押し留められている理由は、あえて語るまでもなくお分かりでしょう。昼頃からつい先程までの長い長い会話パート、単純な殴ったり蹴ったりでは解決できそうもない小難しい話題が一段落し、ようやく分かりやすい展開になってくれたのです。
ネムとアイを除いた五迷宮。
シモンとライム。
それからついでに招待客の中でも戦闘能力に長けるレンリの祖父やドワーフ皇帝、魔界から訪れていた四天王ヘンドリック及びガルガリオン両氏。
話題の本筋にあまり関係のないゲスト達は、遠慮ゆえか一歩引いて前線の討ち漏らしを潰すことに集中しているようですが、それでも座りっぱなしで凝り固まった身体を存分に動かせるのが楽しいのかゲラゲラ笑いながら暴れています。
並の馬車よりも大きそうな獣に植物の根が突き刺さったと思ったら一瞬で全身の体液を吸い尽くされ、勇者が手にして本領を発揮した聖剣は更に大きな怪鳥を粉微塵に切り刻み、そこらの空間に展開した底無しの奈落が落下してきた龍を跡形もなく呑み込み、更に殴り、切断し、魔法で燃やしたり凍らせたり等々。
元々そういう性質として創られたのか、トドメを刺されたバケモノは自然の魔物と違って空気に溶けるように消えてしまうので、一帯が死体で埋め尽くされる心配もない便利仕様。相変わらずラスボスの気遣いが留まるところを知りません。
余談ですが、ヨミが展開した奈落に関しては万が一にも敵が魂の覚醒を果たしてパワーアップした上に戻ってこられないよう、任意で迷宮の機能をオフにしてあるので安心です。
「やれやれ、うちの爺様まで加わるとは思わなかったよ。年寄りの冷や水ってことにならなければいいんだけど。そうそう、これもどうだい、チョコレート?」
『うむ、苦しゅうない。そうか、あの老体はレンリの身内であったか。そなたに似ずに随分とたくましい……む、美味いなコレ。もっとよこせ』
ちなみに、元凶のラメンティアはというと最初の位置からほとんど動かず、椅子に腰かけたままレンリとオヤツタイムと洒落込んでいます。
そのすぐ横には何とも困ったような顔をしたルグやルカ、ニコニコ微笑むネムやアイ、女神や運命剣もいるのですが、稀に生きて地上まで辿り着いた怪物が彼女達を襲ってくることもありません。どうやら、レンリ達に危害を加えないようラメンティアがわざわざ命令しているようなのです。
『戦うのを眺めるにせよ、一人だけではつまらぬ。ここで悪の話し相手となるがよい』
理由については、そんなところ。なにしろ、この状況になって早々に元凶本人がそう言ったのだから間違いありません。
ちなみに、ウル達が敵の軍勢を操っているラメンティア本体を狙わないのも概ねそれが理由です。いつまで気紛れが続くか分かりませんが、こうしてレンリ達をターゲットから外して、なんなら保護してくれているのです。いつまで気紛れが続くかは不明ですが、とりあえずは下手に手出しするより現状維持が安全だろう……というような話を、さっきから戦いの合間に共有しておりました。
「まあ戦いについてはやりたい人達に任せておくとして、神様のほうの調子はどうだい? あれだけすごい勢いでやっつけてるのに、ラメンティア君本人じゃなくて配下の魔物だから意味ありませんでしたー、とか勘弁なんだけど?」
『あ、はい。それに関しては大丈夫かと。さっき戦いが始まってから、頭の中がすごいラクというかリラックスできてるというか、さっきみたいな年数換算だと何千年か分のストレスが一気に溶けてる感じでして。例えるなら、前に皆さんと日本旅行に行った時に入ったアタミの温泉の一万倍くらいの気持ちよさが毎秒ギュンギュン押し寄せてきてて控えめに言って最高です!』
「へえ、そう聞くとなんだか羨ましいね。うっかり人間が知覚したら、一瞬で正気がどうにかなっちゃうレベルの気持ちよさかもだけど」
こうして戦っているのも、そもそもはそれが理由。
恐らく上空の血の玉から発生する魔物は、単なる創造物ではなくラメンティアの分身も同然なのでしょう。故に、こうしてバケモノ退治を続けていれば自然と女神のストレスも解消していくわけなのです。
「このまま、あと何時間か同じ流れを続ければ全部解決しちゃうかもね。皆のスタミナに関しては全力で動き続けても有り余るくらいだろうし」
『むむ、流石にそれは飽きが勝るというものであろう。悪も悪の大ボスらしくキリの良いところで第二形態や第三形態を披露して、気分がダレぬよう味変するつもりであるしな』
「へえ、ラメンティア君ってば第二形態とかあるんだ。どんな感じ?」
『いや、知らんが? なにしろ、なってみたことがない故な。多分やってできなくはないと思うのだが。まあ最悪、今着ている服を脱いで身軽になったのを変身と言い張るから心配するでない』
「うっかり脱ぎすぎて目のやり場に困ることにならないようにだけ気を付けてね……おや、あのへん注目! 見た感じ、ヒナ君とモモ君が何か大技を使うっぽい雰囲気じゃない?」
不真面目な連中が呑気にお喋りをしている最中にも、真面目に戦っている面々は勝利のために色々考えているのです。このまま無数の敵を相手にし続けても埒が明かないとでも思ったのか、ヒナとモモが地上に降りて何やら大技の準備をしている様子がレンリの目に入りました。
わざわざその事実を敵であるラメンティアに教えてあげた格好になるわけですが、まあ、うっかり言ってしまったものは仕方がありません。人生、過ぎたことを後悔するよりも未来に目を向けるほうが建設的というものです。
『ほほう、いわゆる合体技というやつか』
「どんなのが飛び出してくるかワクワクするね! いよっ、ヒナ君のっ、ちょっと良いとこ見てみたい!』
ちなみにヒナの液体操作で上空の血玉を直接的に排除する作戦は、すでに試したものの残念ながら無理でした。七姉妹それぞれの能力を多少なりとも操れるらしいラメンティアが相手だと、移動にツッコミにと以前から何かと便利なことに定評のあるヒナ大先生でもシンプルな力比べでどうにかするのは厳しかったのでしょう。
『ああ、もうっ! 今すっごく集中してるんだから、近くで気の抜けるようなこと言わないでくれる!?』
『どうどう、ヒナ落ち着くのですよ。コレは失敗したら本気で危ないやつなので』
現在、そんなヒナは上空を睨みつけつつ右手だけを高く掲げています。
一本だけピンと伸ばした人差し指の先端に、何やらただならぬ量のエネルギーを集中しているようです。すぐ隣に控えているモモは、『強弱』を用いてのサポート役でしょうか。
かなりの集中力を要する大技なのか、見える範囲で呑気にお喋りをしているレンリの存在が邪魔になっていましたが、モモが声をかけてどうにか続行。すると、次第にどこからともなく奇妙な音が聞こえてきました。
ぎち、ぎぎ、ぎちぎちぎち。
例えるなら、硬く分厚い布を力任せに引き裂いているかのような。
あまり快いとは言えない音の発生源は、今まさに大技を放とうと構えるヒナの指先。その周囲の空間そのものが力づくで捻じ曲げられ、引き千切られることで生じる異音です。
今や大海をも手足の如く操れるヒナの液体操作。
その膨大なエネルギーを、指先に浮かべるたった一滴、極微量の水滴だけに注ぎ込んで最高速度で撃ち抜く。同格の神たる迷宮の誰かが周囲でサポートし、射線上の空間を現世の物理法則から切り離しておかねば余波だけで太陽系そのものが崩壊しかねません。
『よし、充填完了! モモ、皆は?』
『もう全員逃げてるのです。それじゃあ』
『ええ、いくわよっ!』
上空で戦っていた皆にはあらかじめ伝えてあったのか、ヒナの準備が整ったと見るや即座に距離を取って退避。一緒に編み出したモモ以外が見るのは初めてですが、流石の姉妹達やシモンやライムでも巻き込まれたら一溜りもないでしょう。
そう確信できるほどの恐ろしい威力。
その弾速はおよそマッハ二千万。
実に、光速の二十二倍強。
たった一滴の水とはいえ、それほどの速度をもってすれば数多の星々を軽々撃ち抜き、跡形なく砕くも容易い。その比類なき神技の名は――――。
『――――神涙』
地上から宙へと向かう一筋の閃光。
ヒナの指先から放たれた神の涙は、今この瞬間にも生まれつつあった無数の怪物ごと上空の血玉を消し飛ばし、周囲に完全なる静寂をもたらしました。