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がちゃり、と陶器のぶつかる音がした。
白磁のティーカップから紅茶が跳ね、テーブルに小さな水たまりを作る。
少女はカップを持ち上げようとした体勢のまま固まった。
「お、お父様……? 今何と?」
三人は座れるであろう長椅子に腰かける父に少女は呆然と問う。
目は大きく見開かれ、少し幼さの残る可憐な顔立ちをした少女はエーベルト伯の一人娘である。
窓から差し込む陽光を受け、輝くのは艶やかな鳶色の髪。光の加減によって色を変える茶瞳に、影を落とすほど長い睫毛。日焼けを知らぬ肌は透き通るかのように白い。
可憐な顔をより一層惹き立てるドレスは、鮮やかな赤に白地の布を組み合わせたものである。
「リゼル。お前に婚約の話がある」
指を組みそう告げた父に、リゼルと呼ばれた少女はこくりと喉を鳴らす。
今年で十六歳。
決して早すぎるわけではなく、むしろ適した年齢だろう。しかし、今までその手の話はすぐに消えてしまっていた。
今回もまた話が白紙に戻るのだろうと思ったリゼルは、父の表情にいつもとは違う雰囲気を感じて瞳を揺らした。
ドトナール国は君主制の大国であり、大きく五つの地方で分けられている。首都から西に面した緑豊かなパルト地方。そこからさらにいくつかの区分に分かれており、一番の田舎と呼ばれる場所にエーベルト家は屋敷を構えていた。
田舎と言えども、その自然を最大限利用して作られる染布は美しいと有名な場所だ。各工程をそれぞれ分担させた工場があり、それを預かるのがリゼルの父、エーベルト伯爵。
そしてその一人娘であるリゼルは〝変わりもの〟と呼ばれていた。
同じ令嬢たちが嗜む刺繍や読書などといったものではなく、草花や畑に実る作物らを愛でる方が好きだというだけなのに、彼らにはそれがおかしいらしい。
とても淑女とは思えぬ行動はさすが田舎の貴族だと囁かれ、見た目は美しいのに中身が田舎くさいと――大人しい娘を好む男たちにはことごとく縁談を断られていた。
それなのに。
「相手は名のある貴族だ。年齢ともに申し分ない」
「そ、その人の名前は何と言うのですか……?」
リゼルはティーカップを両手で包む。
田舎娘と言われ、十六歳だというのにリゼルにはほとんど婚約の話は舞い込まなくなっていた。
そんな娘との婚約を了承したのは、一体誰なのか。
「フレッディ伯爵だ。今年で二十三歳になるらしい」
「……フレッディ伯爵。ヴェルミオン・フレッディ伯爵ですか?」
その名前に、リゼルは一際大きく目を見張る。神妙な面持ちで頷く父に気づけば叫んでいた。
「こ、断ってください!」
「無理だ。この話はもう通ったんだよ、リゼル」
「お父様!?」
首を横に振られ、悲鳴のような声が上がる。
嫌だと全身が訴えているような気がした。両手で体を庇うように抱き、その腕には軽い鳥肌まで立っている。
「正式な結婚は一年後。それまでは婚約者という扱いだそうだ」
「嫌です!」
「なら、これからの生活を改めるか? 今までは目を瞑ってきたがお前も十六歳だ。いつまでも町の人々と同じように振舞っていては、この先どんな目で見られるかわかるだろう。淑女らしくしていれば、そのうちいい縁談が舞い込むかもしれない」
「そ、それは……」
リゼルはわずかに唇を噛んだ。
淑女らしく家で裁縫をし、本を読み、他の令嬢たちとお菓子を囲んで噂話に花を咲かせる――そんな光景を想像してリゼルは強く首を振った。
型に嵌った趣味嗜好に浸かる気はない。
そんなものよりも、日々めまぐるしく変化する町並みや人々を眺め、散策し子どもたちと触れ合う暮らしの方がよほど楽しく性に合っている。
今さらその生活を変えろなど、リゼルには無理だった。
「荷物はまとめさせておいた。早く支度しなさい、屋敷で待っておられる」
「待つ? それに荷物とは、どういうことですか」
押し黙った娘にそれが答えだと判断した父は立ち上がり、素早く侍女を呼んだ。
その言葉に不穏な空気を感じ取ったリゼルの声が震えた。
「今日からフレッディ伯爵の屋敷で暮らすんだ。くれぐれも失礼のないように」
きっぱりとした口調に、目の前が真っ暗になる。
ヴェルミオン・フレッディ。
――それは、〝幽霊伯爵〟と呼ばれる男の名であった。