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窓を覗くと、外は闇に覆われていた。
頭上には煌々と輝く満月が佇み、辺りを照らしている。
時刻は深夜。多くの人々が寝静まった時間である。
「ヴェルミオン様」
ふいに名を呼ばれ、ヴェルミオンは肩越しに後方を見やった。
手に黒い外套を持った、真顔にも似た表情の少年が扉のそばで控えている。
十四歳であるラシェルは、中性的な顔立ちも、ヴェルミオンに対する態度も何一つこの屋敷に来た時から変わらない。
けれどその瞳の奥に今までにはない感情が過るのを見たヴェルミオンは、それに気づかないふりをしてごく平然と問う。
「どうかした? ラシェル」
「今夜も行かれるのですか」
「そのつもり。約束もしてるからね。もっとも、そう思ってるのは僕だけだろうけど」
苦く笑って頷けば、ラシェルがほんの少し表情を揺らす。
ヴェルミオンは窓に背中を預け、ちらりと視線を横に移した。
部屋を一つ挟んだ先にリゼルの私室がある。
体調を大きく崩して寝込んだのは数日前。
その時、なぜ体調を崩してしまうことを話さなかったのだと、半ば叱るように言われたのは未来の妻からである。
この距離では物音すら聞こえないが、おそらく彼女は眠っているだろう。
ヴェルミオンは足を踏み出し、ラシェルの手からするりと外套を奪った。
「心配しなくても、すぐに戻る」
何かを言いたげなラシェルにそう告げ、上着を翻したヴェルミオンは振り向くことなく屋敷を出た。
辺りを見渡すもやはり人の気配はなく、わずかな街灯と月明かりだけが周囲を照らしている。
慣れた足取りで路地を曲がり住宅街に入り、一際明るいひとつの家を目指す。
老若男女問わず、何人もの人が集まっている家の周りは騒がしく、けれど夜更けということを気遣ってか交わす声は控えめだった。
ヴェルミオンが近づくと、ぴたりと話し声が止んだ。
「何しに来た」
すると集団の中から一人の男が進み出、ヴェルミオンを睨みつける。
黒髪に白髪が混ざった男は頬がこけ、心なしか憔悴しているように見えた。
「貰い受けに」
「やるとは一言も言っとらんだろう!!」
男が激高したように叫ぶ。
ヴェルミオンは表情を変えずに男を見つめ、さらに言葉を紡いだ。
「一つでもいい。数ある中から、いらないものを――」
「そんなものがあるか! 妻が、家族が大切にしていたものでいらんものなどない!!」
眉を吊り上げ、やや痩せ細った男は燃えるような瞳でヴェルミオンを射抜く。
悲壮の感情がちらついていた双眸は、その瞬間怒りに塗り替えられていた。
「遺品を譲り渡せだ!? ふざけるな! それが家族を失った俺たちにかける言葉か、あんたには心がないのか!!」
感情が高ぶり、体を震わせる男の背後では家族と思しき人々がヴェルミオンを伺うように見ている。誰もが黒い服に身を包み、故人となった家族や親しい者を思い悲しみ、最後の別れを告げていた。
すすり泣く声も聞こえ、か細い声でさえ静寂な夜にはよく響く。
彼らの様子を眺めていたヴェルミオンは、どん、と強く肩を押されてよろめいた。
「いいからとっとと帰れ! いくら伯爵でも、譲れないもんはあるんだよ!!」
怒鳴る男に突き飛ばされたヴェルミオンは、さらに睨めつける彼に小さく礼をして踵を返した。
二度と来るな、と男の罵声が背中に投げられる。
その後に子どもの鳴き声がし、慌ててあやす女の声も聞こえた。
街灯に沿って来た道を戻ると徐々にその声もしなくなり、ヴェルミオンは細く息を吐き出す。
屋敷の地下室に並べられた遺品の数々は、すべて故人の家族やその親しい者の許可を取ったものである。
しかし譲渡して欲しいと伝えると大抵の人は眉をひそめ、拒否し――時にはああして激昂されるのだ。
ヴェルミオンの手元にあるのは、そんな中で長い年月をかけて集めたものだった。
この町の人々が自分を何と呼んでいるのかは知っている。
けれど、それを否定する気もない。
涙を浮かべ、故人を悼む彼らの姿を思い浮かべながらヴェルミオンは囁く。
「どれも同じだ。……喜ぶ人なんて、どこにもいない」
遺品を譲り渡してもらおうと向かった先では、いつも悲しみに暮れる人たちがいた。手を挙げて喜ぶ者などいなく、やってきたヴェルミオンをまるで悪魔のような目で見つめるのだ。
そして、彼らは決まって同じ台詞を吐く。
――心がないのか、と。
いっそのこと、なくなってしまえば楽だろうと思ったことがなかったわけではない。
けれど、それは遠の昔に過ぎ去った。
「嘆くよりも欲しいものが手に入ったんだ」
かすれた囁きが闇に溶ける。
手に入れられないと思っていたものは、予想を超えてこの手の中に落ちた。
戸惑ったのは最初だけ。
徐々にその世界に浸り、今ではもう自力では抜け出せないほどに溺れている。
いっそ、もっと深い奥底まで沈んでしまえばいいとさえ思うほどに。
しかし同時に、得られないと思っていたものが傍にあることに気づいたのだ。
「リゼル」
ヴェルミオンの身を案じ、無茶をすると怒る彼女。
笑いかけてくれたことはないに等しかったけれど、徐々に打ち解けようとしてくれているのは感じていた。
彼女の隣は温かい。
ベッドで伏せっていれば無条件で心配してくれて、体調がよくなった後も顔色が悪いとすぐに察してくれた。
そうした気遣いが嬉しく、無条件な優しさに慣れていない彼はその手が離れていくことに恐れを感じた。
外の世界を愛すリゼルは、婚約者という立場がなくなればきっとこの手をすり抜けていくだろう。
それが嫌だと思い始めたのは、自分が望む〝未来〟を見せてくれるからなのか。
ヴェルミオンは初めて感じた感情に疑問に思いつつ、屋敷へと足を向けた。




