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重いため息が唇を割る。
「なんだ、辛気臭い」
じろりとラシェルに睨まれ、リゼルはぴんと背筋を伸ばす。
けれどすぐに力が抜けて調理台に手をついた。まるで体が鉛のように重くなり、ため息を吐くとますます重くなってしまう。
「何してるんだ、手伝わないなら出て行け。邪魔だ」
中性的な顔立ちで、幼いころは女の子に間違われてもおかしくないほどのラシェルは、その顔に似合わずぶっきらぼうな声でリゼルを邪険に扱う。
使い終わった調理器具を手早く片付けていく彼を横目に、リゼルは重い腕を伸ばして積み重なった皿を掴む。
一枚ずつ丁寧に洗いながら、リゼルはふいにこみ上げたあくびをかみ殺す。
昨日はよく眠れなかった。
目を閉じればまたあの影が迫ってくるような気がして、けれど起きているのも心細く――結局、ベッドの中で身を縮めひたすら朝が来るのを待っていた。
「でも、望む未来ってなに? 視えるのは過去でしょう? 偽りでも、ってどういう意味……?」
ヴェルミオンが一番望むもの。
遺品から感じ取る故人の過去に、彼の望む未来があるらしい。しかしそれが何を意味するのかがわからず、リゼルは小さく眉根を寄せた。
そして初めて地下室に足を踏み入れた時の、あの異様な空気を思い出す。
どろりとした闇の中に一人佇むヴェルミオンは、驚くほど慈愛に満ちた瞳で遺品に触れていた。甘い声はまるで恋人に囁きかけるような響きを持ち、ぞくりとした何かが背中を走る。
あれはまさに、遺品の過去を視ていたものだったのだ。
他者との接触ではなく、彼にとっては偽物であるそれを望む、この世とあの世の境目に立っているような男は今日も地下室にこもっている。
「朝食を食べたらすぐなんて……あんなところにずっといたら、体を壊してしまうわ」
換気もままならないであろう地下に長時間居座れば、きっと気分が悪くなるだろう。
リゼルは手を動かしながら、光が差し込む窓に視線を移した。
青々とした空は見ているだけで気持ちよく、こんな日に屋敷に閉じこもってしまうなどもったいない。
わずかな逡巡の後、食器をすべて洗い終えたリゼルはラシェルにその旨を伝えて厨房を出た。
私室に戻って比較的質素に見えるドレスに着替えると小袋を掴み、対となる雄々しい鷹の銅像に見送られて玄関扉をくぐる。
眩しいほどの太陽が頭上にあり、息を吸い込むともやもやとした感情が消えていくような気がした。
「ヴェルミオン様も、外に出ていらしたらいいのに」
かつて生きていた人の過去に執着する彼は、一体何を望んでいるのだろう。
「だめ。口出しはしないと約束したわ。……でも、もう少し現実に目を向けてくれてもいいのに」
ぽつりと本音が漏れ、リゼルは思考を振り払うように足を大きく踏み出す。
ヴェルミオンの屋敷は人気のない場所に建っていて、街路を突き進むと徐々に人の声が聞こえてくる。賑わう声はいくつにも重なって心地よい音となり、リゼルの心までもが弾む。
そして街路を抜け、リゼルは目の前に広がった光景に目を輝かせた。
行き交う人々と、多種多様な露店。リゼルの住む田舎と呼ばれる町と比べると露店の数も、人の数も多い。
山積みになった果物は瑞々しく、獲ったばかりであろう新鮮な魚まで並んでいる。人の波に流されつつも露店を見ていくと、小さな簡易テントで手作りらしき小物が売られているのを目に留めた。
若い女店主が視線に気づいて顔を上げ、控えめな笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませ」
「これ、全部あなたが作ったの?」
「いえ。私の妹たちと一緒に……編み物や縫い物が趣味で、売れたらいいねって」
可愛らしい花の刺繍が施されたハンカチに、破れてしまったのだろう子ども服は別の布を組み合わせて縫いつけられている。袖口や裾部分にも色鮮やかな糸で刺繍がされていて、まったく別の服に生まれ変わっていた。
刺繍をあまりしたことのないリゼルは感嘆の声をもらしながら、並ぶ品々を手にとっては眺める。
「あ、これ可愛い」
枝にとまった小鳥が刺繍されている白いハンカチを見つけ、リゼルは小さく声を上げた。今にも羽ばたいていきそうな鳥は可愛らしい。
女店主に値段を訊き、少し驚いた表情を浮かべる彼女に硬貨を渡す。
ハンカチを丁寧に折りたたんでポケットに入れたリゼルは再び歩き出し、ふいに背中を押されてよろめいた。何度かたたらを踏んでようやく立ち止まると、露店を構える一人の青年と目が合う。
「見て行かれますか?」
青年が並ぶ品々を手で指し示す。その指には少し不格好な、彼の細い手には余る大き目の指輪がはめられていた。
「お土産には最適ですよ」
「……お土産」
「ええ。私は様々な町を渡って露店を構えているので、地域ごとに特徴のあるものだとか、珍しい物が多いんです。なので、家族へのお土産なんかに買っていかれる方が多いですよ」
にこやかに微笑む青年はカミオというらしく、少し伸ばした青みがかった黒髪をゆるく結んでいる。服装は簡素なもので、まさしく商人と呼ぶにふさわしいだろう。
そして紳士的な雰囲気はどことなくヴェルミオンに似ているがカミオの方がさらりとしていて、あの艶っぽさはなく好青年という印象だ。
「……ヴェルミオン様にお土産、買っていこうかな」
お土産の言葉に反応してリゼルがぽつりと呟くと、カミオがきょとんと目を瞬く。
「恋人ですか?」
「ち、違います!」
小首を傾げたカミオにリゼルは強く首を横に振った。
恋人ではない。けれど、それよりも結びつきが強い。
しかし婚約者であると正直に言えるはずもなく、リゼルは知り合いへのお土産だと付け加えた。
「どんなものをお求めですか? 希望に沿ったものがあればいいのですが」
「その人、ちょっと趣味が変わっていて……ちょっとじゃなくて、かなりかもしれないんですけど。その趣味の物をあげるのはできないので、別の物をと」
「そうですか。ちなみに、変わった趣味とは?」
「……あ、えっと」
「あぁ、言いたくなければ構いませんよ。そうですねぇ、これなんかどうですか? ベルトなら普段もお使いになれますし、結構凝ったつくりなんですよ、これ」
口ごもったリゼルは差し出されたベルトを受け取る。
皮のベルトはカミオの言う通り、金具にまで細やかな模様が彫られていた。けれど、仕立てのいい服を身に纏うヴェルミオンがこの手のものを身に着けるとは考えにくい。
「いいものだとは思うけど、ちょっと違うかも」
「ならこちらは? 水晶の置物です。天使の形に彫られていて、小さいですが腕のいい職人が作ったものです」
次に水晶を掘って作られた置物を渡され、リゼルは目を輝かせた。
「綺麗」
広げた羽の一枚一枚が緻密に再現されていて、性別がわからないその顔立ちは神秘的な美しさを放っていた。手にすっぽりと収まる大きさのそれを太陽の光にかざすときらきらと輝き、幻想的な雰囲気を醸し出す。
これならヴェルミオンも気に入ってくれるかもしれない。
「これください」
リゼルはしっかりと手の中に包んだ水晶をカミオに差し出し、手早く包装したそれと引き換えに硬貨を支払った。
「もうしばらくの間ここで店を出していますので、またいらしてください」
カミオに頷き、リゼルは落とさないよう細心の注意を払いながら屋敷への道を辿る。人波を掻き分けて進み、そっと腕に抱いた包みを見ては口元を緩めた。
喜んでくれるだろうか。
期待に胸を膨らませて屋敷に到着すると、そのままの足取りでヴェルミオンの私室に向かう。
「ヴェルミオン様。いらっしゃいますか?」
名を呼んで扉を叩いてみるが、返事はない。まだ地下室から出てきていないのかと首を傾げ、リゼルは階段を下りて裏手口へと足を運ぶ。
地下室へと続く階段は相変わらず真っ暗で、包装のされた水晶を胸に抱いて闇の奥を見つめた。
その時、暗闇の中で何かが動くのに気づく。
思わず身を固めたリゼルは、ランプの灯りであろう光に一瞬照らされたものにほっと息を吐いた。
「リゼル?」
闇から姿を現したのはヴェルミオンである。
不思議そうな顔で小首を傾げるヴェルミオンにお土産を渡そうとしたリゼルは、彼の顔が少し青くなっているのを見て動きを止めた。
ヴェルミオンの頬が青ざめていて、白い肌に差した青は普通よりも目立って見える。
「ヴェルミオン様、具合が悪いんですか?」
「どうして? 平気だよ」
「顔色が悪いです。……ちょっと、失礼します」
先に断ってからリゼルはヴェルミオンに手を伸ばす。
無抵抗な彼の額に手を当てると、少し熱い。念のため自分の額にも手を当ててみる。
「少し熱っぽいです。微熱だと思いますが、気分は悪くありませんか?」
「平気、だと思うけど」
そう言うヴェルミオンの足元がわずかにふらついている。
「もしかしたら、これから熱が上がるのかも――ヴェルミオン様!?」
一歩足を踏み出したヴェルミオンの体が傾ぎ、リゼルはとっさに腕を伸ばした。体にかかる重みにぐっと足に力を入れて、リゼルは何とかヴェルミオンを支える。
体格差があるせいか、気を抜けばヴェルミオンもろとも崩れ落ちてしまいそうだ。
「ヴェルミオン様、大丈夫ですか……!?」
「……あぁ、ごめん。大丈夫」
呟きとともに吐かれた息が熱い。
ヴェルミオンがリゼルから離れようと体を起こすが上手くいかず、再びもたれかかってしまう。
「すみません、ちょっと歩けますか? ベッドで休みましょう」
リゼルはさらに重くなっていくヴェルミオンに声をかけ、何とか体勢を整えた。
あきらかに先ほどより熱が上がっている。
微熱だったものがここまで急激に上がるのだろうかと、嫌な胸騒ぎがしたリゼルは辛そうなヴェルミオンを促す。
荒い息を吐きながらよろよろと歩き出すヴェルミオンを必死に支えながら、リゼルは目的地である彼の部屋を目指した。




