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リゼルは頭の痛みを覚えて目が覚めた。
わずかに顔をしかめ、ゆるゆると双眸を開く。
息を吸うと新鮮な空気が得られ、ふっと体の力を抜いた。
「リゼル」
低い声が聞こえてリゼルは顔を動かす。
どうやら私室のベッドに寝かせられているらしく、椅子に腰かけてこちらを見下ろすのはヴェルミオンである。
上質な服に身を包んだ彼をぼんやりと見つめ、外出中だったのではと胸中で首を傾げた。
「ヴェルミオン様……? どうして、ここに」
「嫌な予感がして戻ってきたんだ。そしたら地下室で君が倒れていて」
艶やかで心地よい低音が鼓膜を揺らし、少しだけ頭痛が和らぐ。
小さく息を吐くと汗ばんだ前髪を優しい手つきでよけられ、探るような紫の瞳にリゼルはたじろぐように視線を逸らした。
「平気? どこかおかしなところはない?」
「大丈夫です。……少し、頭が痛むくらいで」
「それだけ?」
頷くと、ヴェルミオンが安堵の息をつく。
「一度ならず二度までも。したらダメと言われたことはしたくなるタイプなの?」
しかしすぐに声が固くなり、リゼルは肩を揺らした。
「……ごめんなさい」
「どうして地下に入った?」
「……泥棒が、いるのかと思って」
リゼルがおずおずと口にすると、ヴェルミオンはぴたりと動きを止める。
「ほうきを握っていたのは」
「泥棒を退治するためです。身近にあった武器が、それしかなくて」
「……君は、泥棒相手に戦うつもりでいたの?」
「はい」
きっぱりと頷けばヴェルミオンが肩を落とした。
――大切なものを目の前で奪われるようなことはしたくない。
だからほうきを持って地下室へ挑んだ。禍々しさすら感じるあの場所へ行くと思うと足が竦んだけれど、大切なものがしまわれている部屋である。
並ぶそれらは一見不気味な空気を感じさせるが、きちんと整頓されたものたちは丁寧に扱われているのだとわかるほどだった。
「だって、大切なものなんでしょう? 趣味自体は理解できませんが、だからといって雑に扱ったり盗み出していいものではありませんから」
遺品はヴェルミオンにとっても、また遺族にとっても大切なものだ。
虚を突かれたようにヴェルミオンが目を見張る。
その時リゼルはベッドの傍に鎮座する棚の上に、白馬の頭を模した駒がひとつ置かれているのを目に留めた。
チェスの駒で、騎士の役目を持つそれは――ぞわりと悪寒が背中を駆け抜け、リゼルは体を抱きしめるようにして小さく震える。
「リゼル?」
「ヴェルミオン様。その、駒は」
「これ? 倒れていたリゼルの傍に落ちてたんだ」
震えるリゼルを見たヴェルミオンは、何かに気づいたように目を眇めた。
「もしかして、視たの?」
「……視た?」
問いかけの意味がわからず、リゼルは怯えた瞳で駒から視線を外す。
底沼の闇。
のっぺりとした黒い影が肥大し、まるでリゼルを呑み込むかのように伸びてきた。
この世のものではない何か。
底知れぬ恐怖に、あれは危険なものだと本能が伝えてくる。あのまま呑み込まれてしまっていたら、自分はどうなっていたのだろう。
震える指先でシーツを掴むと、再びヴェルミオンが問いかけてくる。
「何を視た?」
「……そ、その駒から、黒いもやみたいなものを見て」
「それで?」
「覆いかぶさってきた時に、気を失って。……目が覚めたら、ここで」
地下室で見た光景を辿るように口にする。
「あれは、何?」
そして震える声で尋ねれば、小さく息を吐く音が聞こえた。
わずかに逡巡する気配を感じると、ヴェルミオンは手を伸ばして棚の上に置かれた駒を取る。白馬の頭を模ったそれを優しく指先でかすめるように撫でた。
「――ただの遺品だよ。もっとも、僕にとっては少し違うものだけど」
リゼルが疑問符を浮かべるとヴェルミオンはさらに言葉を紡ぐ。
「遺品に触れると、その人の過去が〝視える〟んだ。過去と言ってもほんの一部だけれど、それは長年大切だったものを抱えて亡くなった人のものでなければ、視ることはできない」
紫の双眸を伏せて、手の中で駒を転がす彼は淡々とした口調で語る。
どこか無機質で、けれど奥深くに感情を抑えたような――そんな声で。
「視えるって、なに? 過去ってどういうことですか」
ヴェルミオンの言葉の意味が掴めず、リゼルは困惑した。
「追体験、と言えばわかりやすいかな。遺品を持っていた者の記憶、感じたものがそのまま僕に流れ込み、僕の意識となる」
弄んでいた駒を、ヴェルミオンはそっと額に押し当てる。
「リゼルが視た黒い〝もや〟は、遺品の持ち主の想いの形。執念、怨念――形は様々で、けれど時として生きた僕たちを襲ってくるもの」
どくり、と心臓が脈打つ。
不穏な言葉の羅列に、口の中が乾いていく。
「譲り受けた時は平気だけど、遺品は故人の想いが詰まったもの。最初は大丈夫でも、徐々に想いが変化する」
「……変化?」
「この世に対する未練、この世にいる人に対する執着。あらゆるものが現れてくる。思念が宿るんだ」
必ずしも幸せな形で亡くなったとは限らず、不幸な事故が原因でこの世を去ってしまった人もいる。そういう人たちは、思念がより強いのだとヴェルミオンが言う。
「そんなことが……本当に、あるんですか」
「嘘だと思う? でもこれは事実だ」
ふるり、とリゼルは肩を震わせた。
信じがたいような話だったけれど、実際に自分が体験したあの出来事は夢ではない。
今思い出しても体を満たす恐怖。
そしてあの黒いもやの正体に気づいてしまった。
決して証明できない、不確かなそれは。
「幽霊」
ぽつりと口からこぼれ落ちた声にヴェルミオンが頷く。
「一般的に言えばそうなる。思念の塊で、死した人の想いが形となって現れたものがそれ。それをただ視たり感じるだけの人なら、僕以外にもたくさんいるよ」
〝幽霊伯爵〟と呼ばれるヴェルミオンの屋敷では、夜中に亡霊が彷徨うとの噂まである。
リゼル自身、視たことも感じたこともなかったが、どうやらその噂まで真実だったらしい。
この世には説明のつかないものが多く存在する。自分の目に見えているものだけがすべてではないのだ。
リゼルはこくりと喉を鳴らした。
「ヴェルミオン様は、触れても平気なんですか」
彼の話が本当だとすれば、目の前にある白馬の駒がよりいっそう恐ろしいものに思えてくる。
チェスの中では騎士として守ってくれる存在なのに、この時はひどく怖い。
「僕は平気。たまに襲ってくることはあるけど、それよりも〝これ〟は望む未来を視せてくれるから」
「望む、未来?」
「幸せだった過去を視せてくれる。ほんの一部だけれど、数ある中で一番身近で――僕が、一番望むもの」
紫の瞳が妖しげに揺れ、リゼルは目を見開く。
まばたきの一瞬で切り替わるかのように、ゆるりと色合いが変化する。
リゼルは喘ぐように口を開いた。
「でも、それは……ヴェルミオン様にとっては」
「偽りだよ。――でも、たとえ偽りであったとしても、これは僕が望んだ未来だ」
どこか重みのある声が、部屋の中に響いた。




