<3>
リゼルは談話室に駆け込むや否や、その場にへたり込んだ。
熱くなった頬を押さえ、耳底に残る低音を追い払う。
けれど上手くいかず、ヴェルミオンの声が脳裏によみがえった。
「……っ」
ますます顔が熱を持ち、リゼルは両手で頬を覆う。
「あ、あの人……っ」
まるで、するりと言葉がこぼれ落ちたとでも言わんばかりの声色だった。
リゼルの心に入り込んだそれが消えてくれることはなく、代わりに心臓が早鐘を打つ。
落ち着きを取り戻すために深呼吸するも、熱は引いてくれない。
「ヴェルミオン様の馬鹿」
リゼルは小さく悪態を吐き、視界にちらついたリボンを指先で触る。
〝遊ぶ〟と言った少女たちは息ぴったりで髪を編み、慣れた手つきであっという間に完成させた。淡いピンク色のリボンは、リゼルに似合うだろうと言って結んでくれたものだ。
無邪気で愛らしい彼女たちの姿を思い出していると、高鳴っていた心臓が落ち着きを取り戻し、リゼルは立ち上がって談話室を出る。
食堂を覗くとテーブルに子どもたちが群がっており、すぐ近くにヴェルミオンが座っていた。
とっさに視線を外すと、柱からひょっこりと顔だけを出している少女を発見する。
くすんだ赤毛をゆるく三つ編みにした十代前半と思しき少女は、リゼルの姿を見た瞬間さっと顔を引っ込めてしまった。
「あの子は……?」
柱に引っ込んだ少女が再び顔を出す。
しかしリゼルと目が合うと、びくりと肩を揺らして顔を戻してしまう。まるで様子を伺うような姿に目を瞬き、隠れる寸前の表情が苦しげであったことに気づいて引っ掛かりを覚えた。
「あの子、メアリって言うんだ」
彼女の動きを目で追っていたリゼルは、突如近くで聞こえてきた声に顔を上げる。
すると黒髪の青年が苦笑しつつこちらを見下ろしていた。
「メアリ、自分の髪色を気にしてるから。たぶん、君の髪を見て羨ましくなったんだと思う」
「……そうなんですか?」
確かに、黒や茶色といった髪色の中で赤色というのは目立つ。それもくすみを帯びた赤色は珍しく、けれど取り立てて気にするようなものではない。
しかし本人にとっては違うのだろう。
ましてや年頃の女の子、血を思わす赤色の髪など嫌なのかもしれない。
「あまり気にしないであげて」
「私は気にしません。あの子の髪色だって、十分綺麗です」
結われた髪はきちんと櫛が通され、パサつくこともなくしっとり艶やかだ。おそらく念入りに手入れされたであろうメアリの髪を見ながらリゼルがそう告げると、青年は目を瞬いてから表情を緩めた。
「俺はジーク。歳は十七、よろしく」
「リゼル・エグナートと申します。十六歳です。……あの、あなたもこの孤児院で暮らされているんですか?」
リゼルはジークと名乗った青年に問う。
孤児院には親を亡くした子どもや、何らかの事情を抱えた子たちが集まり共に暮らす場所である。そして十代半ばになると孤児院を出て紹介された働き先で日々を過ごし、部屋を借りて一人で暮らすのだ。
「うん。マギーも、こう言ったらなんだけどそろそろいい年だし。子どもたちも増えてきて、年長がメアリだけになるのも大変だろう? 俺はここから毎日仕事場まで通って、その後は子どもたちの面倒を見てる。今日はちょうどお休み」
ジークは自身の黒髪を掻き、自分たちで作ったクッキーを満足げに掲げる子どもたちに視線を移した。
「最初はこんなに多くはなくて、でもだんだんと子どもたちが増えていったんだ。その分大変だけど、フレッディ伯爵が寄付金を出してくれているおかげで助かってるんだよ」
「ヴェルミオン様が?」
「一年くらい前からね。ある日突然いらっしゃったからみんなびっくりして。それからは時々こうして足を運んで、子どもたちの様子を見に来てくださるんだ」
ジークの言葉にリゼルは目を見開く。
子どもたちが親しげに話しかけていたのには、そういう背景があったのだ。
幽霊伯爵との異名を持つヴェルミオンの〝普通〟な行いに驚いていると、リゼルの反応を不思議に思ったのかジークが首を傾げた。
「ところで、君は使用人か何か? にしては服装が……」
「お姉ちゃんはヴェルと結婚してるんだよ!」
「婚約者なんだって」
「妻だろ? 結婚してるんだから、夫婦」
ヴェルミオンを愛称で呼ぶ子どもたちの声が割って入り、結婚という言葉にジークの顔が青ざめる。リゼルの身分が自分とは全く違うのだと気がついたらしい。
「あ、ご、ごめっ……じゃなくて、申し訳ありません! 俺――」
「や、やめてください」
無礼を詫びようとするジークを慌てて制す。
ヴェルミオンと婚約したのはつい最近のことである。リゼルでさえも急に知らされ、断る間もなくヴェルミオンの屋敷へと連れて行かれた。
ジークが知らないのも無理はなく、焦る彼に気にしていないと微笑んだリゼルは子どもたちの高さに合わせて膝を折る。
「私はヴェルミオン様と結婚してないの」
「でも婚約者だって聞いたよ? ヴェルが言ってた」
不思議そうに首を傾ける少女の中では、結婚と婚約は同じ意味合いなのだろうと、リゼルは苦笑する。
「でもね、夫婦じゃないの」
「じゃあ花嫁さん!?」
きらきらと輝く少女の瞳に言葉が詰まった。
彼女たちにとって、妻よりも〝花嫁さん〟という響きの方が特別らしい。
たっぷりのレースとフリルに彩られたドレスを身に纏う〝花嫁さん〟を想像する彼女らに違うとは言えず、リゼルは曖昧に微笑んだ。
「妻でも花嫁でも一緒だろ?」
「違うよ、花嫁さんは特別なの! きらきらしてて、すっごく綺麗なんだから!!」
拳を握った力説する少女は、わからないと眉をひそめる少年を睨む。
「リゼルは僕の未来の花嫁だよ」
まだ正式に籍を入れているわけではないと、訂正できずにいたリゼルの耳にヴェルミオンの声が届く。ぱっと顔を上げると、椅子に座っていたはずのヴェルミオンがいつの間にか近くに来ていた。
「そうなの? まだ花嫁さんじゃないの?」
「うん。でも、あと一年経ったら僕の花嫁になる」
落胆を露わにした少女は、続いたヴェルミオンの言葉に目を輝かせた。
よほどリゼルをヴェルミオンの花嫁にしたがっているらしい。
今は婚約者という立場だが、一年後には結婚してヴェルミオンの妻となるのだ。一年などあっという間で、おそらく気がついたときにはその日が迫っているのだろう。
その事実に少しだけ身震いして、リゼルは小さく頭を振る。
それはこの話が出た時からわかっていたこと。
けれど、来年の今ごろには彼の伴侶となっているのだと――今さらながらに自覚してしまった。
「リゼル? 顔が青い。気分悪くなった?」
しゃがみこんだまま固まっているとヴェルミオンに覗き込まれ、リゼルは顔を隠すように俯いた。
「……なんでも、ありません。平気です」
わずかに鼓動が速くなる。
目の前にいるのは未来の夫。当たり前のことなのに、リゼルは速まる心臓を押さえつけるように胸元に手をあてた。
こみ上げるのは漠然とした不安と――恐怖。
息を詰めると、頭上から小さなため息が降ってくる。
「なんでもないって、口癖? 心配すらさせてもらえないの?」
「え? あ、きゃ……っ」
そう言うや否やヴェルミオンに腕を掴まれて、強引に立ち上がらせられる。思いのほか強い力に驚いていると再び顔を覗き込まれ、整った顔立ちに息を呑んだ。
真剣みを帯びた紫の瞳は吸い込まれるような輝きを放ち、リゼルはこくりと喉を鳴らす。
「この場合、夫が妻を心配するのは普通だと思うけど。違う?」
「……違わない、とは思います。でも、夫婦ではなく婚約者で」
「頑固だね」
幾度となく言った言葉を口にするとヴェルミオンが苦笑する。
ヴェルミオンは顔色の戻ったリゼルに小さく安堵した表情を見せ、マギーに今日は帰ることを告げた。
すると子どもたちから不満の声が上がり、けれど心配そうにリゼルを見る。顔色の悪かったリゼルを心配しつつも、もう少しいて欲しいという気持ちが混ざっているのだろう。
リゼルとしても、せっかく来たのだからこのまま別れてしまうのは寂しい。
「ヴェルミオン様。私は大丈夫です、もう少しくらい」
「だめ。倒れたら大変だから」
ぴしゃりと言い放たれ、リゼルは口を噤む。
引く気配のない彼に肩を落とし、子どもたちにまた来ると約束したリゼルはヴェルミオンに手を引かれるまま孤児院を後にした。
名残惜しさを感じつつも、行儀よく待っていた黒霧に乗って屋敷への道を進む。
来る時よりも速度を落として走る黒霧に、リゼルは心地よさを感じて体の力を抜いた。
「気分はどう? 平気?」
「はい。もう大丈夫です」
「そう、よかった」
手綱を握るヴェルミオンの問いに頷くと、彼の声に安堵の感情が滲む。
顔を上げればまっすぐ前を見据えるヴェルミオンがいて、視線に気づくと柔らかく微笑まれる。
誰もが見惚れるほどの面立ちをした彼は、まさしく美麗と呼ぶにふさわしい。澄んだ紫の瞳はまるで宝石のようで、温和な雰囲気はそれをより際立たせる。
この人と一年後に結婚するのだと改めて考え、リゼルは顔を俯かせた。
婚約の話が出た時からわかっていたことだったけれど、いざ考えると不安がこみ上げてくる。
資産を持ち、見惚れてしまうほど美麗な旦那様。
趣味嗜好はやや偏りがあるものの、他は極めて普通である。見た目も温和で人当たりが良く、子どもにも好かれていて――まさに理想そのものだろう。
けれど、とリゼルはドレスの裾を掴んだ。
「ヴェルミオン様のことは嫌いではないけど……」
好きかと問われれば首を傾げてしまう。
こんな状態で結婚しても、自分は幸せな日々を送れるのだろうか。
例えようのない不安がこみ上げ、その中に恐怖が混ざっているのを感じてリゼルはわずかに痛む胸を押さえた。
「知らないからそう思うのよね」
リゼルがヴェルミオンのことで知っていることと言えば、地下室に集められた遺品に関しての趣味のみ。それだけの情報で好きになれと言う方が難しいだろう。
もっと彼のことを知れば少しは好きになるかもしれない、とリゼルは自分に言い聞かせるように頷いた。
その時、ふいに名を呼ばれてびくりと体を揺らす。
「リゼル?」
怪訝そうなヴェルミオンの声にリゼルは思考を振り払う。
「ひとつ頼みがあるんだけど」
「……頼み?」
「これから毎朝、起こしてほしい」
「……起こす? 誰をですか?」
「僕を」
きっぱりとした口調にぽかんとしたリゼルは一瞬大きく体が揺れて我に返る。抱きとめてくれたヴェルミオンに礼を言うのも忘れ、リゼルは困惑した瞳を向けた。
「い、意味がわからないのですが」
「世間では、毎朝妻が夫を起こすものだと聞く」
「それは……そうかも、しれませんが」
母がまだ生きていた頃、朝の弱い父は毎朝起こしてもらっていた。本来なら侍女や執事が行うべきことではあるが父は母を指名した。
亡き今は侍女に起こしてもらっている。
だから、あながち間違いではない。
けれど貴族の中でそれが当然かと言われれば、違うと思う。
「〝夫婦〟とは、毎朝そうするものらしいけど」
「……夫婦ではなく、婚約者です」
「でもいずれは夫婦になるよね?」
そう問うヴェルミオンに半ば押し切られ、リゼルは毎朝〝夫〟を起こすという任務を任されることになってしまった。
思いのほか押しが強いヴェルミオンに肩を落としていると、二人を乗せた黒霧が木々に囲まれた道を抜ける。
澄み渡る青空を見上げたリゼルは、未だ胸の中に渦巻く感情を押さえつけるように細く息を吐いた。




